ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

鬼頭莫宏②‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る-

今回は鬼頭莫宏の代表作『なるたる』の話をしたい。

 

前回記事で、鬼頭莫宏には「普通の人の普通の人生」に対する敬意の視点がある、と書いた。

 

ひるがえって考えてみると、『なるたる』という作品は「普通の人生」の中で誰もが抱くようなトラウマ的経験に寄り添う立場を一貫して保っている。

 

人が「竜の子」と結びつき命を渡して竜となる。空を揺蕩う竜は届かないものとして表象される。

 

京児が竜の子とリンクし全てが手遅れになってから京児への気持ちに気づいた笙子の話、宇宙に魅入られ竜と共に星を旅する息子リョーリャを探すおばあさんの話、竜とリンクした息子ロバートと軍から逃亡をはかる母親ジェーンの話。シイナの母も、娘・実生を竜から人間に戻すために人生をかけて研究を続けていた。

 

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↑ここいいよね

 

どこかさびしく、自由な存在として描かれる竜。かつては同じ地に立っていたはずのヒトが、そんな竜になり届かないところに行ってしまう。誰の人生にもある「どうしても欲しかったのに届かなかったもの」。それが見事に抽象化され、ファンタジックな設定に落とし込まれている。

 

誰の人生にもあるようなそんな届かないものに対して、そして届かないものに執着してしまう自分に対してどう向き合うか。その視点を大事にしているのが『なるたる』という作品なのだ。

 

どこを読んでも鬼頭莫宏の絶望と希望のふちを歩く人間の姿に感動してしまうのだが、中でも僕が気に入っているのはやっぱりのり夫の死のシーン*1である。

 

のり夫は鶴丸を愛していた。鶴丸に救われたと感じているのり夫にとって鶴丸は全てだった。だが、鶴丸は「孕めない生物」には興味がない。「孕む」身体機能を持っていないのり夫にとって、鶴丸の元にいることは生涯満たされる可能性が絶たれていることを意味していた。

 

それでも鶴丸を助け続ける人生を選んだのり夫の死の瞬間は唐突に訪れた。鶴丸の支援で竜骸「ヴァギナ・デンタータ」を操り、無防備になったのり夫の元に、「豚食い」という嗜虐趣味の男が唐突に表れ、のり夫を犯し殺す。のり夫は自らの竜骸を呼び戻すこともできた。だが、最後の最後まで、自らの死を引き換えにしてでも鶴丸の力になることを選んだのだ。無意味に思えるかもしれない。価値のない死に思えるかもしれない。

 

でも、そんな無意味なことに必死に頑張るのが人生というものではないだろうか。生きる価値を見出せないまま死んでいくのが人生というものではないだろうか。『なるたる』を読んでいるとそんなことを考える。

 

僕は、昔から人と自分を比較して落ち込んでしまうタイプで、いつも、人格、能力、才能、努力の量、あらゆる点で人に比べて自分は劣っていると考えて辛くなってしまうことが多い。そんなときに『なるたる』のエピソードを思い出すと、自分の人生をそこまで背負い込まなくてもいいんだ、と楽になれる。こんなダメな自分でも生きてもいいんだと思える。『なるたる』はそんな気にさせてくれる稀有な漫画だ。

*1:作中の、のり夫の感情の動きについて丁寧に読解しているブログがあるので紹介しておく。

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