ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

ゼロ年代からテン年代にかけてのテレビバラエティ番組の変化についてちょっと考える

僕、ホリィ・センは91年生まれなので、1998~2004年が小学生、2004~2007年が中学生、2007~2010年が高校生であった。

僕が中学生のときに『電車男』が流行っていたわけだが、まさに「オタク」であるというアイデンティティを自分は持っており、「スクールカースト」的なものを強く意識していた。「リア充」に対するルサンチマンだった。

 

今や「オタク」がスクールカーストの下位であるという意識は薄れているように思う。とはいえ、「陽キャ陰キャ」といった言葉は未だに存在しており、「コミュニケーション能力」的な何かがカーストの上下を分けるということ自体はやはり起きているのではないだろうか。

 

この「コミュニケーション能力」という基準は曖昧だが、その参照項となっているものに「お笑い芸人」がいるように思う。芸人たちはテレビバラエティに登場しており、特定のコミュニケーション形式のヘゲモニーを生成しているように思う。

だが、このヘゲモニーは時代を経て移り変わっていくものだ。今回、ラリー遠田の『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり――〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(2018)を読んだので、その内容をつまみ食いすることで、ゼロ年代に支配的だったコミュニケーション形式がどういうものであったのかを考えるための一素材にしてみよう。

 

この本は6章構成で、それぞれ個別のトピックを扱っている。章立てだけでもだいたい言いたいことが分かるので、まず章立てを貼っておこう。

第1章 なぜ、『みなさん』『めちゃイケ』の時代は終わったのか
第2章 なぜ、フジテレビは低迷しているのか
第3章 なぜ、ダウンタウンはひとり勝ちしているのか
第4章 なぜ、『アメトーーク!』『ゴッドタン』『水ダウ』はウケているのか
第5章 なぜ、視聴者は有吉とマツコから目を離せないのか
第6章 なぜ、大物芸人はネットで番組を始めるのか

それぞれにいろんな話をしているので、どれが一般的な話なのか分かりにくいし、僕も評価しがたい。評価は読者に任せるとして、ゼロ年代テン年代とを区別して語られているであろうポイントを列挙しておこう。

 

第1章に関しては「王道バラエティ」が流行らなくなったことで、『みなさん』と『めちゃイケ』は終わったという。『みなさん』はパワハラ的な笑いが近年のポリコレ的空気に合わなかったようだ。

めちゃイケ』は出演者が高年齢化していき、番組自体、出演者にとっての「青春」だったと分析されている。テレビは「感動」を提供するものというよりも、もっとシニカルなものが求められているということかもしれない。

 

パワハラ的笑いが忌避されることに関しては第2章のウッチャン博多華丸・大吉サンドウィッチマンのような「いい人」が売れているのだという指摘にも繋がっている(それにしては松本人志はよく生き残っているということで、第3章では独立に分析がなされている)。

また、第2章では「ボケ」よりも「ツッコミ」の比重が上がったということが述べられており、シニカルさが求められている証拠ではないだろうか。

具体的には『はねるのトびら』が2008年に全盛期であり、ボケが中心であったが、今やマツコ、有吉、くりぃむしちゅー上田的なツッコミキャラクターが求められており、ナレーションもツッコミ型のものが増えたという。

「ボケ」が忌避されるのは、視聴者がハイコンテクストさに耐えられないということでもあるようだ。どちらかというと「わかりやすい」ものを作っている日テレの方がフジテレビよりも分があるのではないかと分析されている。

 

第4章では、「ネタ」の内容に踏み込まれている。2009年においては「エンタ」「あらびき団」「レッドカーペット」といった番組での1,2分ネタがブームだった。

しかし、最近は長めのネタが披露されることが増えている。番組構成にもこれは反映されており、本が書かれた2018年に流行っている番組として「アメトーク」「ゴッドタン」「水曜日のダウンタウン」が挙げられている。いずれにせよ、ディレクターによって番組構成がかなり練られているという印象である。

より具体的には、これらの番組は前例を踏襲するのではなく、計算して取れる笑いだけでなく、計算を超える部分を扱っているという点で優れていると分析されている。

アメトークは芸人主体のトークにおいて芸人のポテンシャルに任せ、ゴッドタンは芸人のアドリブに頼りつつもその下準備をしっかりやるコント的構成になっており、水ダウはスタッフが「説」を検証する中で作られた「VTR」をどう評価していくかにおいて工夫がなされている、という感じである。

 

第5章では有吉とマツコが分析されており、いずれも「テレビ芸能人的振る舞い」(自分はテレビに出るのが当然だという振る舞い)を自らに課さず、テレビ視聴者側の(シニカルさも含んだ)「下から目線」にちゃんと立っていることが指摘されている。

 

第6章は若者のテレビ離れではなく「テレビの若者離れ」が起きているのだと指摘し、近年の見逃し配信等の技術的な変化について、テレビ的なものが薄く広がっているだけで「テレビが死んだ」わけではないという展望を述べている。

 

以上、軽く紹介したが、個人的に面白いと感じるのは視聴者のシニカルな目線を折り込み済みで番組が作られるようになってきているという点である。これは、北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)で指摘していたような80年代のテレビ、すなわち「ギョーカイ」の舞台裏を見せるような番組構成に似ているように思う。

北田はそれが2ちゃんねる的なシニカルさへと転態しつつ、それでもなおベタなロマンティシズムが同居していくようになる過程を分析しているわけだが、マツコのようなキャラクターは「シニカル」という言葉から想像される「性格の悪さ」というよりもむしろ「信頼できる率直さ」という感じがするように思う(なお、この本では(北田が重視していた)ナンシー関とマツコが同一視されているのも興味深い)。

(ホリィ・セン)