ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

鬼頭莫宏③‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る-

飽きもせず今回も鬼頭莫宏の話をしていく。

 

テーマは「死」だ。鬼頭莫宏作品のキャラクターはいかの重要なキャラであろうとあまりにもあっさりと死んでいく。『なるたる』の最後は驚愕で、突然現れた訳の分からない暴徒の手で雑にキャラクターたちは殺されていく。

 

『ぼくらの』の小高勝(コダマ)は、成り上がりの土建屋の社長である父親を尊敬していた。「パパは選ばれた人間だ」と確信するほどに。「パパみたいになりたい」とコダマは願った。父は、コダマの全てだった。

 

が、その父はコダマの目の前であまりにもあっさりと死んでしまう。

 

「あのパパが死ぬなんて。」

「何があっても生き残りそうなパパ。」

「生命力に満ち溢れたパパ。」

「選ばれていたはずのパパ。」

「じゃあ、俺は?」

 

そうしてコダマ自身も死んでいった。

 

鬼頭莫宏は『なるたる』最終12巻の巻末コメントにこう書いている。

 

「かけがえのない命」。そんなモノに救いを求めていても先には進みません。あなたがいなくても、たいして困りません。自分がいなくても、まったく困らないでしょう。だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばれるのだと思うのです。

 

 当会会誌『リフレイン』「特集:『自己実現至上主義』批判」にも書いたが、現代は人それぞれに固有の価値を持つことが求められやすい時代だ。インターネットの大衆化を背景に個人の「内面」までもが能力主義のもと値札をつけられ、市場原理にのみこまれている。

 

僕(ちろきしん)はずっと、そんな社会に息苦しさを感じていた。学校で友達を作れず、Twitterで友達を作るしかなかった僕は、いかに自分の価値をブランディングするかというSNSが本来持つ競争原理にのみこまれ、精神を消耗していった。

 

今でも僕はTwitterをやりながら、「どうしてこんなに自分は何もできないんだろう」「なんで自分は頑張れないんだ」なんて考えてふさぎ込んでしまうことがよくある。というか、今まさにそうだ。昔からどうやっても直らないので、性分なのだろう。一生そんな風にして生きていくのかもしれない。

 

「全ての人には価値がない」、という鬼頭莫宏流の発想は、そんな僕にとって、今なお瘴気に満ちたネットの世界に身をさらして生きていくしかない自分にとって大きな助けになってきた。どうせ僕は一生「自分の価値」の高さを誇れるような人間にはなれやしない。鬼頭莫宏の作品はそんな無力な人間になんとかその場を乗り切るだけの小さな、でも貴重な力を与えてくれる。