ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

セカイ系の二つの世代

セカイ系を論じるに際して忘れられがちなのが、セカイ系作家に大きく分けて二つの世代が存在していることである。

 

新海誠秋山瑞人高橋しん鬼頭莫宏らを60年代後半〜70年代前半生まれを第一世代とすれば、西尾維新佐藤友哉滝本竜彦ら(とりわけファウスト系)を70年代後半〜80年代生まれを第二世代とすることができる。

 

こうした区分をするのは、宇野のように「古い/新しい」という価値評価を行うためではない。両世代において、「世界の終わり」をめぐる「想像力」に決定的な差異が認められるからである。

 

第一世代においては、『ほしのこえ』『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』がそうであるように、「世界の存亡をめぐる戦争」が具体的なものとしてーーというよりは作中で現にあるものとしてーー描かれる。
さらに、ロマン主義的な表象が大量に描かれ、「感傷的」な空気感が濃厚にあることもまた第一世代の特徴だろう。

 

他方、第二世代においてはこうしたロマン主義的表象は(相対的に)希薄である。どちらかといえば郊外や地方都市のジャンクさ、殺風景さがそのまま描かれる傾向が強い。また、第一世代において実際の終末として描かれた「世界の終わり」は、具体的に訪れるものというよりは、主人公にとっての抽象的かつ観念的な対象として描かれることが多い。ノストラダムスの大予言が外れたように、「世界の終わり」などやってこず、「終わりなき日常」(宮台真司)を生きていくほかないことへの諦念と違和感が、彼らの作品には瀰漫している。さらに、第二世代で特徴的なのは、とりわけファウスト系がそうであったようにテロや殺人をモチーフとした作品が多いことだ。これは、単に新本格ミステリをはじめとする探偵小説からの影響というだけでは済まない。なぜこれら「探偵小説的」と言ってよいモチーフが、主人公の過剰な自意識(自分語り)と結びついてセカイ系的な表現として現れてきたのか。特に、なぜ佐藤友哉は「テロル」を見出したのか。

 

それは恐らくは、彼らにとってこの「社会」そのものがはっきり敵対的存在として現れてきたからである。笠井潔が言うように、今日におけるテロとはーーとりわけ通り魔をはじめとするホームグロウンテロの場合ーー社会契約を破棄し、市民社会と戦争状態に入ることである。社会が敵であるから、佐藤は「復讐」の手段としてテロを選ぶのだ(『クリスマス・テロル』)。それは単に著作が売れない(重版されない)から、読者に復讐しようとしたという以上の意味を持っている。セカイ系における社会領域の希薄さが「たんに「恣意的な「関心」に従属する選択」ではない」ことの意味は、ここにある。

 

ここでさらに、我々は彼ら(滝本、佐藤)がひきこもりやフリーターであったことを想起しなければならない。滝本はその代表作『NHKにようこそ!』やエッセイ『超人計画』からも知れるように大学を中退したひきこもり青年であったし、佐藤はその作品において北海道のパン工場で働く青年をしばしば描いてきたように元々フリーターであった。同じようなことは西尾にも言えるかもしれない。西尾は『クビキリサイクル』でデビューした当時立命館大学に通う学生であったが、後述するようにそれは今日においては「ルンプロ予備軍」、すなわち将来においてそれなりの確率で非正規労働者やフリーターになりうる存在でさえあることを意味している。要するに、彼らはいずれも未だ正規雇用の職を得ざる不安的な「ルンプロ」的存在であった。
彼らを「ルンプロ」たらしめた社会的条件とは、言うまでもなく就職氷河期である。バブル崩壊景気循環に伴う一時的な不況にすぎないと当初は思われたが、その楽観的予測は外れ長期化し、日本社会の産業構造に起因する構造不況であったことがまもなく露呈する。

 

構造不況の到来と就職氷河期への直面は無論第一世代においても無関係ではない。就職氷河期の到来によって多くの青年がもはや安定した雇用を得られなくなり、プレカリアート化したことによって、社会は彼らにとって敵対的な存在にもなる。そして、自らを「ルンプロ」たらしめたーーあるいは終身雇用の崩壊によって将来も定かでない存在たらしめたーー敵対的存在としての社会=世界は滅ぼされねばならない。だからこそセカイ系は、それが意識的か無意識的かは別として、「世界の終わり」を主題化したのではないか。その表現において、第一世代は前島賢が『セカイ系とは何か』で指摘したように冷戦の記憶が強く刻印され、第二世代はオウムの地下鉄サリン事件という9・11に先行して発生したテロの記憶があるだろう。両世代の「世界の終わり」をめぐる「想像力」の差異は、ここにも見出すことが可能である。

(黒羽)