ゼロ年代内面吐露ブームって本当にあったのか?
この記事はゼロ年代研究会アドベントカレンダー7日目の記事です。
僕、ホリィ・センは前回、ゼロ年代研究会は長いゼロ年代(1995~2011)に固有のエピステーメー(知の枠組み)探しをするのだと述べた。今回話題として挙げたいのは「内面吐露」という枠組みである。
浜崎あゆみ(特に2000年前後)、あるいは椎名林檎、Cocco、鬼束ちひろといった、ダークな内面を歌う歌手がゼロ年代には流行していた。この背景には「内面吐露ブーム」とでも呼べる事態があったようだ。
まず、しばしば挙げられるのは95年に半ば社会現象となったエヴァンゲリオンである。エヴァンゲリオンでは、作中において主人公のシンジくんがひたすら内面を吐露するモノローグを繰り返す。このような手法を用いるアニメ作品はそれまでになく、ある種の視聴者にはドストライクだったようだ。
オタクカルチャーにおいてはその後、美少女ゲームやライトノベルが流行していくが、いずれも一人称の文体で書かれていることが多く、男の主人公がなんらかの葛藤を抱えた際にはそれが読者に対して直接的に表現される。
これらもエヴァ的なものの後継にある、としばしば解釈されているように思われる。宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で「ひきこもり/心理主義」と呼んだものである。
東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』でゲームの「ひぐらしのなく頃に」に対して指摘しているように、これらのモノローグ的文章が、作中の状況設定から遊離していき、抽象的に表現されることで、作中のキャラクターと画面の前のプレイヤーがオーバーラップしていく。洗練されたモノローグ文学はプレイヤーの没入を誘うというわけである。
松谷創一郎の『ギャルと不思議ちゃん論』によれば、このような事態に出版産業も共鳴していたようだ。1998年~2001年頃に「告白系ノンフィクション」が流行する。
具体的に挙げられているのは、乙武洋匡 『五体不満足』、大平光代 『だから、あなたも生きぬいて』、飯島愛 『プラトニックセックス』、 梅宮アンナ 『「みにくいあひるの子」だった私』 などである。どんどんトラウマ的な暗いものがブームになっている傾向がある。
松谷はそこに「社会学的」な分析を加える。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇事件、不況などに伴う社会不安への「癒し」としてそれらが機能したのだと。
なるほど、これだけの事例を挙げればたしかに、ゼロ年代には「内面吐露」のカルチャーがあったようにも思われる。
だが、ゼロ年代という「時代」が「内面吐露」コンテンツに反映されているという考え方を採るのではなく、エヴァンゲリオンのような特権的な出来事によって美少女ゲームやライトノベルのようなものが派生的に生じたとも考えられないだろうか。
とはいえこれらは、冒頭に挙げた浜崎あゆみたちや、「告白系ノンフィクション」ブームとは直接的な影響関係を持っていない。直接的な影響関係がないはずにもかかわらず、同時代的に発生している。だからこそ、「時代」という変数が効いているという分析が可能になるのである。
「ゼロ年代という"時代"に内面吐露ブームがあった」というこの仮説は、もっと遠く隔たったカルチャーについても見てみることで、より補強できるように思われる。
だが、そういった時代精神のようなものが素朴に反映されるわけでもないだろう。光がレンズを通るときに屈折するように、あるコンテンツになにかが「反映」されているというときは、ある種の歪みを持って反映されている、と考えてみるべきだと思われる。「内面吐露ブーム」という仮説から出発するにあたっての一つの方針として、そう考えるべきである。
問題は「内面吐露ブーム」という仮説自体がそもそも棄却される可能性である。たとえば、文学においては遅くとも1930年代に「私小説」というジャンルが成立しており、それが社会とどのような関係を持っているかということが問われてきた(正直僕は文芸批評に疎いので詳しくは知らないけども)。
そうなると、文学においては「内面吐露」という手法が、かなり昔からある種の正統性を獲得していたと言えよう。文学とそれ以外の境界線をどこに敷けるのかは難しいが、上で挙げてきたテキストベースの諸々は、私小説的な文学性の影響下にある可能性もある。
エヴァ以前には「内面吐露」はなかったのだろうか。もし「内面吐露」のようなものがあったとしたら、それとゼロ年代の諸々とで区別がつかないのだとしたら、「ブーム」などなかった、ということになるのかもしれない。
すなわち、「内面吐露ブーム」という仮説から出発するもう一つの方針は、エヴァ以前やテン年代において「内面吐露」と類似したカルチャーを見つけてみて、それがゼロ年代の諸々と異なると言えるのか、それとも同じなのかを検証してみるべきだろう。
(ホリィ・セン)