ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

【告知】リフレインVol.2 巻頭言公開

 ゼロ年代研究会の新刊『リフレインVol.2 特集:「失われた『ゲーム世界』」を11/11(土)文学フリマ東京37にて1500円で頒布いたします。ブースは「そ-06 (第二展示場 Fホール)」です。

 告知にあたって巻頭言を公開いたします。全記事の紹介にもなっていますのでご覧ください!

 

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 ゼロ年代研究会は、一九九五年頃から二〇一一年頃までを「長いゼロ年代」と規定して、その時代と社会・文化について掘り下げていくことと、今生きている現代の社会を批判的に捉え返すこととを目的としている。

 

 昨年は京都・大阪・東京でイベントや合宿企画を多少は開いていたが、今年に入ってからは主催者らが多忙化したことでこの半年はほとんど集まることができなかった。それぞれが個人的な研鑽(ゼロ年代の「未履修」の作品に触れるなど)は積んでいたものの、会誌制作以外はほとんど何もできなかったに等しい。

 

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 そうしている間にもゼロ年代の作品はどんどんリバイバルしている。たとえばアニメでは『ダイの大冒険』や『スラムダンク』、『るろうに剣心』が放映された。これらは「九〇年代」の作品というイメージも強いが、ゼロ年代らしいもので言えば、『東京ミュウミュウ』や『令和のデ・ジ・キャラット』、『BLEACH』が放映された。来年は『狼と香辛料』のリメイクが決まっている。

 しかしアニメ以上にゲーム市場においてリバイバルは活況を見せているようにも思われる。近年のリバイバルで注目を浴びたのはなんといっても『FFⅦ』のリメイクだろう。その続編も来年に発売することが発表されている。

 興味深いのは、『FFⅦ』と同時代と言ってよい九〇年代半ば以降の名作が立て続けにリメイクされていることだ。たとえば、『ライブアライブ』や『マリーのアトリエ』、『マリオRPG』、『ONE.』などが挙げられる。

 九〇年代半ばはWindows95がリリースされ、ゲーム機としてもプレイステーションセガサターンNINTENDO 64が発売した、新しいテクノロジーの夢が垣間見られた時代であった。当時の最前線にあった作品たちがこうして「懐かしいもの」としてリメイクされるのはなんとも皮肉な事態だが、ここまで挙げた作品が(グラフィックや動作の流麗さを追求した『FFⅦ』を除き)Nintendo Switchへと移植されていることを考えると、このリメイク自体、ある種のニュー・テクノロジーとして捉えることが可能である。

 サブスクサービスが普及し、コンテンツに対する歴史意識が曖昧になりつつある昨今だが、九〇年代半ばと現代とでは、「ニュー・テクノロジーへの期待」という点では奇妙な共通点が見られるのである。だがもちろん、当時と現代ではその欲望のありようは全く異なることだろう。

 そもそも、先ほど挙げた九〇年代半ばの作品では旧世代の「スーパーファミコン」のソフトも二つ含まれている。すなわち「新しい」ものが常に売れるとは限らないのだ。むしろ人は新しいものに対してそんなにすぐには適応できず、戸惑いをおぼえるものである。

 しかし、よく言われることだが、昨今は「新技術が普及するためにかかる期間」そのものがどんどん短くなっている。自動車や電話、テレビなどが普及するのには数十年を要したのに対し、インターネットは十年ほど、スマホは五年ほどで一気に普及した。mixi→Facebook→Twitter(新X)→Instagram→TikTokのようなSNSの「移り変わり」についても相当の短いスパンで起きている。

 これでは「新しいものに期待する」どころではなく、ひたすらに世代間の細かい分断が発生し続けるのではないだろうか。その意味では逆説的だが、Nintendo Switchのような「リバイバルを促進するニュー・テクノロジー」には、技術革新の加速を遅らせ、「世代間の分断を癒す」装置としての機能が期待されているのかもしれない。

 前置きが長くなったが、ゼロ年代研究会としても単なる懐古趣味に陥るのではなく、あくまでも現代の視点からゼロ年代を再考することで、世代間の断絶に対するリテラシーを涵養することを目指している。その意味では(どれだけ忙しかろうが)会誌によるアウトプットだけは手を抜くわけにはいかない。

 今回発行する会誌Vol・2の特集テーマである「失われた『ゲーム世界』」にはそんな思いも込められている。

 

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 より具体的に特集テーマについて説明しよう。

 ゲームは、固有の設定や世界観、操作性などをプレイヤーに与えることで、われわれの「今ここ」の現実とは異なる「ゲーム世界」を作り出してきた。日本においては、神話などを引用元とする「ファンタジー」の世界観が八〇~〇〇年代頃のゲーム文化において花開いたように思われる。そして、〇〇年前後には特異的と言ってよいほどに、PCによる美少女ゲーム(いわゆるエロゲー)の文化が隆盛を極めた。昨今も(美少女ゲームを題材にした漫画『神のみぞ知るセカイ』で有名な)若木民喜の『16bitセンセーション』がアニメ化し、「美少女ゲームに特権的な地位が与えられていた二〇〇〇年前後への憧憬」というテーマそのものにも市民権が与えられているようだ。

 しかし主に二〇一〇年代以降、スマホの台頭もあってお手軽な「ソシャゲ」が流行し、もはやそれまでのゲーム世界が持っていた「没入」感を失わせてしまったように思われる。一見「ファンタジー」の要素を継承している昨今の流行ジャンルである「異世界転生もの」も、もはやファンタジーの設定をある種の予定調和として組み込んでしまい、「ワクワクするもの」ではなくなってしまったのではないか。

 そこにあるのは「チート」をすることで「俺TUEEE」がしたいといったような、葛藤なき動物的な欲求であるようにも思われる。

 「今ここ」を超えるゲーム世界があったからこそ、われわれの想像=創造の力は喚起され、オルタナティブなものへの好奇心や、豊かな自己内対話といったものが促進されていたはずだった。ゆっくりと失われていった「ゲーム世界」はいかなるものだったのか。現代においてその世界を取り戻すことは可能なのか、不可能なのか。そういったことを探求の俎上に載せたいのである。

 

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 そうして今回は、ゲームをめぐっての記事七本と、ゼロ年代を再考する一本の批評が集まった。順に紹介しよう。

 最初の四本は「美少女ゲーム」の系譜に位置するものである。

 調査報告 「検証——葉鍵世代」コミュニティ編」(ちろきしん)は、美少女ゲームブランド「Leaf」と「Key」が全盛を極めた二〇〇〇年前後にオタクとしての多感な少年・青年時代を過ごした者たちにインタビューすることで、当時の肌感覚を浮き上がらせている。一方、調査主体であるちろきしんは一九九九年生まれであり、その時代の感覚を知らない世代である。世代的に一回り以上も違うちろきしんが、自身の肌感覚において新鮮さや意外さを感じた部分を敢えて率直に記述するという戦略が採用されている。そのことにより、表面的に語られてきた現代とゼロ年代との違い(たとえば「〝嫁〟から〝推し〟へ」といった単純な図式)ではなく、根底的な前提の変化(たとえば美少女ゲームへのアクセスの難しさと、その乗り越え方)を浮き彫りにする野心的な調査である。

 美少女ゲーム・ワズ・デッド(ワニウエイブ)は、一九八六年生まれの立場から、なにゆえに当時、美少女ゲームが特権的なまでの感動を呼び起こしたのかという、その「マジック」のメカニズムを内在的に論じた記事である。そこでは、Key作品を中心とした作品の内容よりもむしろ、その作品群をどのように経験したのかという世代経験が語られているという点で、先ほどのちろきしんの記事を補完する、当事者側からの省察として位置づけることも可能だろう。しかし、ワニウエイブは、その美少女ゲーム経験が特権的であった、それゆえに、区切りとしての「死亡宣告」をつきつけるのである。その理路は本文で確認してほしいが、ワニウエイブの中で美少女ゲームの「死」が受容されているからこそ、最後に語られる現代のゲームへの展望も豊かなのだと思われる。

 「ぼくは、いま、痛い」——『車輪の国、向日葵の少女』と苦痛の瞬間(田原夕)は、美少女ゲーム車輪の国、向日葵の少女』への緻密な読解を通じて、痛みによる現在(いま)への囚われが、過去や未来への想像力を閉ざしてしまうさまをありありと描いている。田原も述べるように、この読解は典型的な美少女ゲーム批評に見られる「美少女を助けることの意味」を問うものではない。支配的・公式的な言説に振り回されるのではなく、田原自身の実存に関わる読みが深いレベルで展開された、良い意味でモノローグ的な文章である。「ゼロ年代的」と言ってもよいかもしれない。しかし、田原は他者が現在抱えている「痛み」を、未来の(大人の)視点から矮小化することへの倫理的な疑義を呈する。「いま」を相対化しようとするゼロ年代研究会、それどころか、「いま」ではない特定の時間を特権視しようとする世代論的言説全般に対し、根本的なアポリアを投げかけている。

 美少女ソーシャルゲーム史試論 二〇一一-二三 ―「統合型コンテンツ」の誕生―(箱部ルリ)は、ここまで挙がってきたようなゼロ年代美少女ゲームではなく、「その後」であるテン年代以後の「ソシャゲ」のうち、主に「美少女ソーシャルゲーム」の趨勢を把握することを目指す論考である。「美少女ソーシャルゲーム」に絞ってみても、「ラブライブ」や「アイマス」関連のものをはじめとして無数に存在するが、箱部はその中でも①最新のコミケのジャンルコードに存在するもの、②pixivでの検索件数が多いものに絞り、時系列順に「一〇年代初頭/中盤/後半以降」の三つに区分する。スマホ等の技術革新もふまえつつそれらの特徴を抽出し、オタクの消費傾向として語られてきた「データベース消費」「物語消費」「相関図消費」の図式を用いて鮮やかに整理してみせる。これを読めば、現代の「ソシャゲ」についていけない〝ゼロ年代の亡霊〟読者諸賢の視界がクリアになること請け合いである。

 以上四本は「美少女ゲーム」の文脈に基づいた文章である。しかし、「ゲーム世界」をより包括的に捉えるうえでは、広い意味での「ファンタジー」というジャンルも重要であろう。

 ソードアート・オンライン』「マザーズ・ロザリオ」編座談会(ゼロ研編集部企画)は、テン年代以降に流行した「異世界転生もの」の走りと言える作品である『SAO』の中でも評価の高い「マザーズ・ロザリオ」編に絞っての座談会を収録したものである。この座談会企画はテン年代以後の作品を批判するというコンセプトで開かれており、前回は『響け! ユーフォニアム』について行われた。そこでは、高度に洗練された「管理社会」において「自己実現」することが強制されることへの批判が展開された。今回はゲーム特集ということで、「異世界転生もの」への批判を展開するべく『SAO』を取り上げたのだが……。結果的には大絶賛だった。「マザーズ・ロザリオ」編では、現実世界とゲーム世界との間の緊張関係が丁寧に描写されており、昨今の「異世界転生もの」からはむしろ断絶さえ感じる、優れてゼロ年代的な作品なのであった。

 ファンタジー=メディア空間がもたらす〈救済〉 → 〈二世界問題〉からSound Horizonを読み解く(ホリィ・セン)は、現実世界と架空世界との関係をどのように整合させるかをめぐる〈二世界問題〉がテーマになっている。そのため、先述の「マザーズ・ロザリオ」編で描かれたようなリアル世界とゲーム世界との緊張関係について、理論的に整理することを可能にするメディア論的な道具立てを提供している。理論的な道具立てを用意するだけでなく、そうした〈二世界問題〉が現代社会ではどのように扱われるようになったのかを社会学再帰的近代化の議論から迫り、最終的にはどのように〈二世界問題〉に向き合っていくべきなのかをホリィ・センは問う。その答えには此岸と彼岸を往還することでいかなる救いが得られるのかという抽象的な問題が関わってくる。抽象的な議論を具体化するうえでホリィ・センは音楽ユニットSound Horizonの、ファンタジー的な要素が強いアルバムMärchenをやはり〈二世界問題〉を軸に読解するのだが、そこではホリィ・セン自身の持つ「ファンタジー」が敢えて投影され、複数の欲望が交錯するスリリングな読解でしか到達できない解答へと読者を導くことだろう。

 東方くら寿司論(入江遜考)は、「幻想郷」を舞台とするシューティングゲームとしてゼロ年代に一世を風靡した「東方」シリーズと、大阪で発祥した回転寿司チェーン「くら寿司」とを比較していく。入江自身が古風な仮名遣いでこの記事を構成していることからも示唆されているが、両者の比較においては、表面的な類似性が指摘されるだけでなく、オリエンタルな空気を擬制するメカニズムという点での根本的な繋がりがあることが読み解かれていく。「くら寿司」については語られている経営戦略とその世界観(ブランディング)を元ととしたものであるが、「東方」においては作られる楽曲の音楽理論的な読み解きがなされることが白眉である。共通して見出されるどこかアヤしい「日本」のイメージからは、欧米列強にキャッチアップすることへの強迫に急きたてられる中で、合理主義的なライフスタイルが押しつけられたことの歪みへと思いを馳せざるを得ないのである。

 以上が特集に沿った記事である。ゲームというテーマの特質もあるだろうが、比較的物語の内容よりも「ゲーム世界」とコミュニケイトするにあたっての〝アーキテクチュアルな側面〟に注目した記事が多くなっている。これは、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で自然主義的な読解と対置した「環境分析」的な読解がそれだけ根付いていると解釈できるのではないだろうか。その点、田原の記事は〝硬派な〟作品読解が展開されている点が特異的である。

 いずれにせよ本特集により、ゲームという観点から時代・世代感覚を養うための土壌を固められたならば(あるいは田原論考に従うならばその困難さをも受け取っていただければ)、われわれとしては望外の喜びである。

 

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 なお、ゼロ年代研究会ではゼロ年代にまつわる自由投稿の記事も歓迎している。今回の唯一の自由投稿記事である神と暴力の「批評」――大澤信亮論(馬場息吹)は、「ゼロ年代の言論は思想的に無価値」と断じたことで物議を醸しだした大澤信亮の思想を丹念に(しつこく)追いかけた記事である。「ロスジェネ」系の論客として名を知られたものの、もはや読まれなくなっているように思われる大澤だが、正当にもこの論考では大澤にとって批評とは何か、すなわち大澤にとっての「思い通りにならない他者」とは何なのかという核心的な問いと格闘している。そのため、大澤が持っていた可能性の中心の一端に触れることのできる、現代においては貴重な論考である。なお、本記事が構成されるにあたって馬場が採用した執拗な文体そのものが大澤的なスタイルであり、大澤自身の文体が持つゴツゴツした他者性も体感させられる仕上がりになっている。

 

 

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巻頭言は以上です。

表紙は秋葉凪人先生に描いていただきました。

 

よろしくお願いします。

(ゼロ研編集部)