ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

黒田硫黄①‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る-

黒田硫黄とは何者か、という問いを考える。ついついこんな作品を書く人はどんな人なんだろうということを考させられてしまうような天才漫画家だ。

 

これまで鬼頭莫宏の無常観的な作品世界について書いてきた。

 

黒田硫黄も無常な作品世界という点では鬼頭莫宏と共通している。

 

大体登場キャラクターの望みは叶わないし(黒田硫黄も失恋の話が多い)、黒田硫黄もまた、軽率に世界を滅亡させる。ただ、鬼頭莫宏よりも明るい。

 

鬼頭莫宏黒田硫黄も、人が生きて死んでいくことの意味を信じていない。鬼頭莫宏はそれを自分に言い聞かせながら、描いているように感じる。生きていることに意味を見出せないのが辛くて、絶望して、なんとかそれでも生きようともがいた過程が漫画ににじみ出ている。

 

それに対し、黒田硫黄は仙人みたいな印象がある。短編『あさがお』に「五つのときは天才子役、十のころは天才数学少年、十五で少年剣道大会全国優勝、二十で狂人」になったヨシキという人物が出てくるが、僕はどうにもこの人物が黒田硫黄が思う自分の理想形なんじゃないかというような気がする。

 

 

 

ヨシキが「魔法」で空を飛びあがり、月に立つ印象的な場面があるが、黒田硫黄もそうやって月に立って外から人の世界を眺めているような感じがするのだ。ヨシキは映画監督になるというオチがついているが、黒田硫黄も自分の信じる美を表現するために漫画を描いている、そんなタイプの作家だと僕は思っている。

 

どうにも「仙人」黒田硫黄のレンズから見て、最も美しく見えるのは欲望のままならなさらしい。『大日本天狗党絵詞』では人目を避けて生きている人ならざる「天狗」という存在が描かれる。「天狗」も最初は人間だ。人の世界から弾かれて「天狗」になる。そして暗闇の中を生きている。黒田硫黄の墨を使った独特な画風が「天狗」の生き様にあまりにもぴったりマッチしていて息をのんでしまう。

 

そんな「天狗」たちは人間に対するルサンチマンを爆発させて「天狗党」を作り人間世界に対して反旗を翻す。それで、この天狗が黒田硫黄にしか描けないものなのだ。天狗という存在の中に人と一線を画した高貴さと妙に人間臭いところが同居しているのが、黒田硫黄の漫画を他とは違う特別な作品にしている。「天狗」は日陰者の人間が、自分と重ねられそうでギリギリ手が届かない、そういう存在なんだなあ。やっぱり黒田硫黄は天才だ。いや、狂人と言った方がいいかもしれない。