ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

黒田硫黄②‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る-

僕が黒田硫黄で一番好きなのは『茄子』だ。

 

僕はよく『茄子』の話をするのだが、『茄子』はどんな漫画かと聞かれると毎回困る。

連作短編集といえば話が早い。だが、『茄子』はただの短編の寄せ集めではない。登場人物が有機的関係を築いていて、ある短編のキャラクターが別の短編の関係なさそうな人物と関わりがあったりする。そうした関わりが『茄子』という短編シリーズ全体を通して網の目のように広がっている。一方で他の話とは完全に独立した話(急に時代劇や近未来SFが始まったりする)もあって、それも含めてすべてが『茄子』という一つのタイトルの中に収まっているのだが、全然統一感のない話なのに不思議と統一感があるのだ。

 

『茄子』に統一感をもたらしているものとは何か。僕は黒田硫黄の人生の多面性を描こうという姿勢だと思う。

 

まず一つは人間の生きる世界が多様であること。

 

現代日本の世界のさまざまな人の物語が半分以上を占めるが、スペインの自転車レーサーの物語(映画化された「アンダルシアの夏」)や江戸時代の時代劇(これが変な話で面白い)、近未来の日本を舞台にしたSFものもある。人は生まれた環境の条件に縛られながら自分の人生を生きていく。自らの努力で人生を切り開くものもいれば、努力が報われないもの、荒波に翻弄される中で日々を必死に生きるもの、ただなんとなくぼーっと日々を送るもの、刹那的に生きるもの。

 

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『茄子』を読んでいると、さまざまな人間がこの世界には共存していてそれでいいのだという当たり前のことに思い至る。先日の記事で黒田硫黄鬼頭莫宏の類似性を指摘した。鬼頭莫宏は自分の実存を作品に乗せて書くタイプの才能で、黒田硫黄は漫画表現というものを追究するタイプの才能だ。僕は二人のどちらが好きかと言われると鬼頭莫宏と即答する。鬼頭莫宏のもがきながら漫画を描いていることが作品から伝わってくるのがたまらなく好きだからだ。だが、どこか危うい鬼頭莫宏と比べた時、黒田硫黄の描く作品には余裕を感じる。その黒田硫黄の視野の広さが最も現れているのが『茄子』だと思っている。

 

それはともかく『茄子』のキャラクターってめちゃくちゃ魅力的なんだよなあ。たった三巻の中で愛着のあるキャラクターが何人もいる。非常に限られた枠で一人の人間というものを表現した、その無駄を削ぎ落とした美しさに感動させられるが、しかもそれを何人ものキャラクターでやっているのが『茄子』なのだ。