ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

【ゼロ研×百合文研】まどマギ座談会②まどマギの作品構造―まどマギ世界における「責任」の変化と『ファウスト』イメージ

 

(注)本座談会(パート②)はパート①に引き続き、 TV版12話上映後(即ち『叛逆』上映前)に行われたものであるので、今パートの対談はTV版についての内容を主である(パート①は百合文化研究会ブログにて)。

 

パート①↓

【百合文研×ゼロ研】「まどマギ」座談会①心中と百合とゼロ年代 - 京都大学百合文化研究会の研究ノート

 

【ちろ】叛逆の物語を見る前に、作品全体のシステムの話をしたいんですよね。長くなるんですけど、いいすか?

 

【レニ】いいよ。

 

まどマギにおける重要なキーワード「責任」

 

【ちろ】まず最初に取り上げたいのは、魔女現象から魔獣現象への切り替わりが何を意味しているのか?という問いです。そこには、まどマギで重要なキーワードとなる責任の問題が絡んできます。7話で、ほむらは、自分を助けてくれたさやかを助けなければと焦るまどかに「感謝と責任を混同してはダメよ」と告げます。4話でも「あなたは自分を責めすぎているわ」とまどかに語りかけていますよね。ほむらは一貫してまどかの責任を免除しようとする存在なのです。まどかが背負っていた責任を自らが代わりに背負い込もうとしていたことは後の展開で明らかになってきます。魔女現象は社会の歪みを個人の責任に帰するものですし、杏子は父の新興宗教の隆盛の原因が自分にあることがわかったがために家庭を壊してしまいました。まどかも自分が魔法少女に早くなっていればと後悔し続け、ほむらは自分の責任としてまどかを守ることを引き受けます。

 

「サヴァイヴ系」としてのまどマギ

 

【ちろ】作中でさやかは悪いことが起きるとすぐ犯人探しをしようとします。悪いことが起きるとその責任を個人に帰せてしまうんですね。まどマギが中盤に魔法少女達のバトルロワイヤル的な状況を呈すのはさやかの価値観の異なる者を排除しようとする態度が大きな要因の一つになっているわけです。虚淵が小説を書いたFate/zeroのことはもう僕はあまり覚えてないんですが、Fateシリーズはいわゆる「サヴァイヴ系」と言われる作品の代表作です。「サヴァイヴ系」については宇野常寛ゼロ年代の想像力』が詳しいですが、大きな物語の崩壊の結果、小さな物語の乱立した状況、すなわち各々がそれぞれ自分の違う価値観を持っているが故に生き残りをかけて戦うという状況が現れます。ゼロ年代批評の代表的な論客である宇野常寛はこの「小さな物語の乱立」という状況にゼロ年代の大きな時代性を見たわけです。

 

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障害の個人モデルから社会モデルへの転換

 

【ちろ】小さな物語の乱立状況をいかにして乗り越えるかということはゼロ年代テン年代が共有する課題ですが、まどマギはどのような答えを出したのでしょうか。ここで、魔女現象と魔獣現象の転換に目を向けていたいと思います。魔女現象は悪の責任が魔法少女個人に向かうシステムです。その一方、魔獣現象では、悪が魔獣という形をとって「社会の歪み」から生まれることになっています。問題の所在が個人モデルから社会モデルへ転換しているんですね。障害学でいう障害の個人モデルから社会モデルへの転換と対応させるとわかりやすいと思います。車いすを利用する身体障がい者を例に取りますが、かつて彼ら彼女らが階段でしか入れない施設を利用できないのは障がい者個人の責任とされてきました。これが個人モデルです。それに対し、障がい者運動と障がい学の発展の中で生まれた社会モデルでは、社会が彼ら彼女らの利用を妨げていると発想を転換したのです。まどマギでも、悪が魔女個人の責任とされてきた個人モデルから魔獣という社会の責任とされる社会モデルに転換した訳ですね。

 

中動態の世界

 

【ちろ】日本の現代思想の世界で中動態という言葉があります。我々が当たり前のように生きている能動-受動の言語世界に対して、古代にかつてあった能動-中動という言語世界を対置する。

主に國分功一郎が言っているんですけどね。どういうことかというと、我々は普段何かが起きたときに誰に責任があるか明確になるように能動-受動の言語世界で生きている。責任能力のある誰かが能動的に意志して起こした行動が誰か別の人に受動的な影響を与える、そういう世界です。ところが、中動態の世界では、「場」で行為が発生するんです。

何か出来事が起きたとき、「その場の雰囲気」だとか「神の思し召し」だとか、場所や世界で行為が発生する。さやかが悲しい最期を遂げたのはさやか個人の責任ではないですよね。魔法少女システムを含んだ世界が悪いわけです。まどかはかつて魔法少女個人が引き受けていた責任を一身に引き受けます。そのためには自らが中動態的に作動する場にならないといけない。個人であることを捨てて概念になる必要があったわけです。(ちなみに、ここでちろきしんがした話は國分・熊谷『責任の生成』という本に大体書いてあります。)

 

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【やま】社会モデルへの転換の話は面白かったです。ただ、まどかが概念になったという論法が自分にはごまかしに見えてしまうんです。結局まどか一人を犠牲にしてしまってるんじゃないですか?まどかが自分で選んだから良いみたいに描いてるけど、それ以外の選択肢があったんじゃないか。

 

【ちろ】その通りです。それが叛逆に繋がっていく。

 

【レニ】まどか=キリスト説が成立するのではないでしょうか。結局まどかが社会の不公正を贖うことによって社会が救われましたという話。

 

【やま】最終話で恭介がアヴェ・マリア弾いてた。

 

【レニ】そうなんだよね。まどかはキリストなんだよなあ。

 

【すず】孤独な人間の隣にいるっていうのもキリストっぽい。

 

【ゆぅ】キリストよりもどちらかといえば、まどかのスタッフは『ファウスト』のグレートヒェンを明確に意識していたはず.......。なんでかと言えば、(10話で)まどかが魔女化した姿が「クリームヒルト・グレートヒェン」と設定されていたはずなので。或いは「契約」というモチーフもファウストにおける悪魔との契約を連想させるとも言いうると思う。その筋で行けばまどかは、(ある種の)ドイツ文学などにおいて男の人を救済していく「永遠の女性」の変様と考えるのが素直かなとは思う。補足をすると、ファウストは「汝は如何にも美しい」と言ってしまい悪魔に魂を持っていかれるはずだったのに、なぜか最後にファウストは救われる。そこにグレートヒェンという女性が関わっている。

 

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【いし】二部の終わりにグレートヒェンがファウストの魂を救いにいきますよね。

 

【ゆぅ】言いたいことは二つあって、(1)「契約」について言えば、キュゥべえの契約には『ファウスト』の契約の悪魔的なモチーフが重ねられていると読むのが基本線かもしれない。そして、(2)まどマギの物語自体も『ファウスト』の物語と重ね合わされているかもしれない、ということ。勿論、まどかをキリストと重ね合わせて考えてみるのもありだと思うけれど。

 

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【いし】ファウストは努力の人だったのに、悪魔に魂を売り渡して欲望の権化になっていく。まどマギの物語が『ファウスト』と重なるっていうのはそういう意味ですか?

 

【ゆぅ】それは全く意図していなくて、僕の強調点は、天上の女性がこちらを救いに来ることとそれが理知的なものの外にあること。それと「契約」の乗り越え。(「契約」→「賭け」)

 

【いし】『ファウスト』という戯曲全体で表されているストーリー線ってことか。

 

【やま】僕『ファウスト』読んだことないなあ。

 

【いし】『ファウスト』好きなんだよ。面白いよ。

 

【ちろ】やめてくれやめてくれ。文学の知見が全くないことにコンプレックスがあるんだよ。あたしってほんとバカ。

 

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