ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

印象 ゆとり世代

ゆとり世代

この言葉の由来となった「ゆとり教育」は、学習指導要領が1998年に改訂(2002年に実施)され2016年に再度改訂されるまでの10年あまり、詰込み教育を脱し総合的学習や個を重視した「ゆとり」ある教育を掲げていたことから広まりました*1。そして「ゆとり教育」に対するネガティブなイメージは、2000年から実施されたOECDによる学習到達度に対する調査であるPISA(Programme for International Student Assessment)の結果が、読解力についてあまりふるわず、さらに2003年、2006年と日本の順位の順位が下がり続けたことに端を発する「学力低下」論争によって植え付けられました。

ゆとり教育の下敷きとなった旧文部省の「新学力観」は、受験競争や学歴偏重といった社会問題をうけて1970年代から80年代に提唱されるようになりました。それまで増加していた授業時間数は改訂のたびに少しずつ削減され、丸暗記ではなく創造性や個性を重視する必要が議論されてきました。それが90年代には政策に本格的に反映され、1998年の学習指導要領の改訂に至ります。その時に持ち上がったのが学力低下論争でした。

90年代はバブル崩壊に端を発する高度経済成長期の終焉と「失われた」低成長時代の始まりでした。ゆとり教育の前提であった、皆が高等教育を求めて激しく競争する総中流志向も崩壊し、階層ごとに教育へのモチベーションに差がありそれが世代間で再生産される格差社会であるという指摘が注目されるようになりました。個性を重視するゆとり教育は、階層差に基づくモチベーションの違いという「個性」も重視してしまう、格差社会に適合的な学力観ともいえるかもしれません。

ゼロ年代前半に加熱した学力低下論争は文科省の政策の方向を変化させました*2。2016年の改定で授業時間は再び増加傾向となり、教科書の記述量も増加しました。しかし、学力低下論争が鳴りを潜めたのはこうした政策の変化ではなく、いわゆるゆとり教育をもっとも長期間受けた学年であるにもかかわらず(!)2009年、2012年のPISAの結果が良好だったからでしょう。残念ながらこの結果はあまり知られておらず、ゆとり教育を受けた世代、いわゆる「ゆとり世代」の負のイメージを払しょくすることはありませんでした。*3

私が今でも憤りを感じるのは、所属していた大学で2010年代に行われた制度改変の理由に「学力低下」が挙げられていたことです。授業の合間の世間話としてゆとり世代をくさすのは大目にみるとしても、根拠の乏しい印象論がこのような「実害」に結び付くのは全く看過できない!と、全身を激しい怒りが貫いたことを思い出します。

にもかかわらずこれから印象論を語るのは恐縮ですが……あくまで印象を述べるなら、ゆとり世代とは日本社会の転換期に立つ世代であり、旧社会と新社会のはざまで価値観を引き裂かれた世代であるということです。

これまでは、集団に献身し集団のなかに自らの役割を求める社会でした。これからは、自分自身の幸福が行動の指針であり、自己実現を求める社会です。これまでは、集団が個人のアイデンティティでした。これからは、個人が集団のアイデンティティであるところの多様性に価値がある社会です。これまでは、性役割を是とする社会でした。これからは、性役割を否定し個人を尊重する社会です。これまでは、集団が個人に介入することは恩恵でした。これからは、集団が個人に介入することは暴力です。

このような社会の転換に対する年長者の戸惑いが、ゆとり世代への否定的な印象につながっている、というのが私の印象です。というのも「ゆとり」とは、せんじ詰めれば集団より個人を優先する、集団の束縛に従わないことについて言われているように思うからです。ゆとり世代につづくさとり世代*4とは、まさにこのような価値観の転換を受け入れた――悟った――世代ということができるでしょう。もちろんゆとり世代が外から見るとゆとっているだけであるように、さとり世代は外から見るとさとっているだけであって、新しい価値観を内面化したというのが正しいのですが。

これは、ゆとり世代にひとつの課題をもたらすように思います。昭和世代の価値観も、さとり世代の価値観も、ともに内面化することができず「学ぶ」ことになるのがゆとり世代なのです。

この課題は(私の印象論だから当たり前ですが)私自身について非常に当てはまることです。高校の三つくらい上の学年に資本論の通読を自負する筋金入りのマルキストがおり、私自身もプロレタリアート独裁を目指す古典的なマルクス主義を接種して(多少免疫をつけた)思想形成を行いました。社会問題とは格差・階級問題であり、その解決は国民国家の制度・政策上の問題であると考えていました。その解決は前衛党的な自負を持つエリートに課せられているという使命感が社会問題への興味を形作っていましたし、正しさは(私自身も含めて)社会的・言語的に形成されるのであって個人の内面から湧いて出てくるものではないという哲学に強く魅了されていました。私の学習意欲はその世代的制約も相まって、昭和世代の、個人を捨象する思想に向けられていたようです。ところが、長じていくに従い私を魅了した思想は次々に揺るがされ、批判され、まさに問題の元凶とみなされていることに気付きました。私はアイデンティティ政治を学び、フェミニズムを学び、リベラリズムを学ぶことを通して、個人の自由意志の涵養とその選択の政治的重要性を学ばなければいけませんでした。

振り返ってみると、私が最初の思想形成を行ったゼロ年代は「自分探し」の時代でもあったように思います。私自身は偏狭な思い上がりから、自分そのものに自明な価値があるわけがないと端から切り捨てていたわけですが、その自分探しこそ「これからの価値観」をなんとか内面化しようとするゆとり世代の努力だったように思われてなりません。自分自身を問い直すことから社会とのかかわりが始まるという思想こそ、ゼロ年代に胚胎されテン年代に花開くものだったと今なら言うことができそうです。

最後に宣伝です。今までの印象論は、いわゆるX、Y、Z世代の区分ときれいに符号するわけではないですが、Z世代の価値観を学ばなければいけないという問題意識から、『ジェネレーション・レフト』を読むことにしました。興味のある方は@KNabezanmaiまでご連絡ください。

文責 雪原まりも

*1:

学習指導要領の一覧 -- 学習指導要領のデータベース -- 国立教育政策研究所教育研究情報データベース

*2:2003年の一部改正で学習指導要領は「ミニマムスタンダード」であり、それ以上の内容を教えてもよいという方針が示されていました。

*3:こうした事情については、『「ゆとり」批判はどうつくられたのか』が詳しい。

 

 

*4:さとり世代はゆとり世代と同一視されることもある。

碇シンジではメンタリストDaiGoを止められない――「コンプレックス」概念の変容について

この記事はゼロ年代研究会アドベントカレンダー1日目の記事です。

adventar.org

 

ゼロ年代研究会では「あなたにとってのゼロ年代」をテーマに記事を書いていきます。ゼロ年代に関することを語りたい方はどなたでもアドベントカレンダーに登録して記事をお書きください。

このゼロ研ブログに書くこともできますので、ここで書きたい人はホリィ・セン(Twitter:@holysen)に個人的にご連絡ください。

 

---

 

「コンプレックス」とは本来、精神分析的な概念である。テン年代以降、「心の闇」が語られることはなくなり、すべてが白日の元に晒されていく社会において、コンプレックス概念もまた、精神分析という出自を"抑圧"してしまった。

 

しかし、このこと自体がまさに精神分析的な事態なのである。ゼロ年代までは幅を利かせていた(むしろエヴァンゲリオンなどの影響もあり、一時的に最高潮に達した)精神分析的視点を取り戻すべきだとわれわれは考える。

 

何が変化し、何が失われたのだろうか? この記事で、少しばかりの見通しを示しておこう。

 

精神分析におけるコンプレックス

精神分析の始祖は言わずもがなフロイトである。しかし、今回注目する「コンプレックス」の概念は、フロイトの著名な弟子たちが発達させた。

 

まず、専門用語としてコンプレックスを提唱したのはユングである。ユングの定義では、コンプレックスは「一定の感情を核にした無意識的な観念や記憶の集合体」を意味する。

 

ただし、日本においてカタカナ語で(和製英語的に)言われる「コンプレックス」はたいてい「劣等コンプレックス」のことを指す。

こちらはアドラーが提唱した概念である。アドラーフロイトの無意識概念に影響を受けつつも、劣等感を補償する「権力への意志」を理論の中心に据えた。

 

劣等コンプレックスは単なる「劣等感」とは異なる。劣等コンプレックスにおいては、他人に対する劣等感が十分に自覚されていないのである。それはむしろ優越感というかたちで現れることもある。現代的な事例で言えば、しばしば無自覚になされる「マウンティング」は劣等コンプレックスが生じている分かりやすい例である。

 

このような精神的なこじらせは、文学的テーマにもなりうる。国語の教科書にも載っていることで有名な中島敦の『山月記』では、主人公が自意識を肥大させるあまり、虎になってしまう。彼は自分を「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」と特徴づけた。コンプレックスとはこのような逆説的な複合体だ。

そして、エヴァンゲリオン以後のゼロ年代においても、キャラクターがコンプレックスに振り回されてウジウジしつつ、それでもコンプレックスに向き合っていく様がしばしば描かれてきた(たとえば『アイシールド21』(2002~2009)における主人公の小早川瀬那とライバルキャラの桜庭春人を挙げたい)

ときに読者・視聴者はそれを通じて、自身に潜む闇とも葛藤してきたのである。

 

コンプレックスはいま

インターネットミームにおいて、「〇〇コンプ」という言葉が使われるようになって久しい。〇〇には学歴や容姿といった言葉が入る。

それは正しく、優越感と劣等感の複合体として用いられる側面もあったはずだが、もっと単純に劣等者を侮蔑するためのタームとしても普及した。

 

商業主義がインターネットをも覆いつくした現代において、低俗なインターネット広告ではコンプレックスを刺激するものが席巻している(たとえば脱毛の広告など)。言わばコンプレックス産業である。

ここにはもはや、精神分析的な意味合いでのコンプレックスは見られない。現代の広告はこう告げてくる。「コンプレックスがあるんだろう? ならばこれを買えば解消する」と。

 

今やコンプレックスは、人々の焦燥を煽り、金を払わせるための道具だ。

「心理学」を道具化した、象徴的存在がそう、メンタリストDaiGoである。

 

加速するライフハック

DaiGoは「メンタリズム」という超能力めいたパフォーマンスを「心理学」の名で遂行するキャラクターとしてテレビに出てきた印象が強い。言わば、マジシャンのようなポジションだった。

それが今や「心理学」を用いたライフハックの伝道師となった。興味深いことに、DaiGoは人に優越したいという下品な感情を隠さない。むしろ、劣等感は原動力であるというかたちで、「心理学的に」自己を正当化している。

 

DaiGoの言う「心理学」が科学的に疑義のあるものである(十分に研究のレビューがなされているとは言えない)点は、既に多くの人が指摘しているが、今はそのことは措こう。

問題は、DaiGoの標榜する「心理学」が精神分析的な方向性、すなわち理性への批判や自己の葛藤に向き合うというものではなく、単に問題を分かりやすいレベルで解消する「ライフハック」に偏っていることである。

 

加速するグローバル資本主義の中で、"ウジウジ"している時間などないのだ。コンプレックスを生じさせる問題があるのであれば、それはどんどん効率的に解決していけばよい。心理療法においてそれは、表面的な症状に焦点を当てた、認知行動療法・短期療法の隆盛を帰結する。

 

そう、もはや、碇シンジではメンタリストDaiGoを止められない。

 

---

 

だが、対症療法というものは往々にして問題を見ないようにしているだけである。抑圧されたものは回帰する。長い人生で見れば、症状に対処するだけではいつかしっぺ返しがやってくる。

どんな人間であってもある種の症状と共に生きていかざるを得ない。それが精神分析の教えである。

 

手放すな。コンプレックスは君の命だ。

(ホリィ・セン)

『リフレイン』創刊します! & 三宅香帆「自己管理アイドルソングの登場――00年代~10年代女性アイドルの歌詞と自己啓発書のメッセージの類似」(抜粋)

お待たせしました。いよいよ、ゼロ年代研究会の会誌を創刊します。

 

その名も『リフレイン』です。

もはや歴史化しつつあるゼロ年代の"残響"を聴いてほしいという思いでこう命名しました。

 

2010年代はスマートフォンの普及に代表されるように、SNSや動画投稿サイトなどのソーシャルメディアが人々の生活の中に深く根付いた時代でした。

いいね数やフォロワー数などの評価が数字で可視化される中、自己をどのように他者にプレゼンテーションするかがいっそう重要な関心ごとになっていきました。

 

YouTuberが人気職業になり、企業は「自己分析」や「学生時代に力を入れたこと("ガクチカ")」を新卒の学生を選別する上で重視するようになりました。

自らの「やりたいこと」を欲望することが社会によって要請され、個人の「内面」までもが資本主義の競争原理に巻き込まれていく時代において、「自己実現」の地位は危うくなりました。

 

そんな時代状況を見据え、『リフレイン』創刊号では「『自己実現至上主義』批判」を特集テーマにしました。

2010年代から爆発的に「国民化」していったアイドルについての論考を主軸に据え、就活、美容整形、「意識高い系」などについても扱っています。

こちらが表紙です。表紙は漫画家の木村紺先生に描いていただきました。

 

 

出展情報は以下のとおりです。

 

京都大学11月祭(11月19~22日(土~火) 体育館)

文学フリマ東京35(11月20日(日) S-08)

コミックマーケット101(12月31日(土) 土曜日東地区 "マ " 05b)

 

値段は1500円です。これらにお越しになれない方にも、随時手売りは受けつけます。ネット通販も年内には開始する予定です。

 

まだ発刊前になりますが、『リフレイン』の試し読みとして

三宅香帆「自己管理アイドルソングの登場――00年代~10年代女性アイドルの歌詞と自己啓発書のメッセージの類似」

の前半部を掲載します!

 

------

はじめに―10年代の終わりと女性アイドルブーム

 2010年代の終わり。元号が令和に変わったころ、日本レコード大賞優秀作品賞には4つもの女性アイドルグループが選出されていた。AKB48乃木坂46欅坂46、日向坂46。そのどれもが、作詞家・秋元康のつくった歌詞を歌うグループである。

 アイドルといえば、どのような歌詞の曲を歌うイメージが強いだろうか。松田聖子の『赤いスイートピー』や中森明菜の『少女A』を持ち出すまでもなく、やはり恋愛の曲を歌う印象が強いだろう。それは元号が令和になっても変わりはなく、2019年レコード対象優秀作品賞に選出された曲のうち、AKB48の『サステナブル』、そして日向坂46の『ドレミソラシド』は恋愛の気持ちを歌っている。

 しかし一方で、欅坂46の『黒い羊』は思春期の独白と解釈できる歌詞となっており、そこに恋愛が登場する余地はない。

 

「自らの真実を捨て 白い羊のふりをする者よ

黒い羊を見つけ 指を差して笑うのか?

それなら僕はいつだって それでも僕はいつだって

ここで悪目立ちしてよう」

欅坂46『黒い羊』秋元康作詞、2019年)

 

 

 このような歌詞を歌う本作品は、思春期の鬱屈を歌っているとも解釈し得るが、一方では、組織の内部で必死に自分を鼓舞しようとするサラリーマンの心情吐露のようにも思えてくる。つまり、考えようによっては自己啓発的な側面を持った歌詞だと解釈できるのだ。

 さらに同タイミングでレコード大賞優秀作品賞にノミネートされた乃木坂46の『Sing Out!』は、『黒い羊』よりも更に直接的に人々を鼓舞する歌となっている。

 

「自分の幸せを 

 少しずつ分け合えば

 笑顔は広がる」

「人は皆弱いんだ

 お互いに支えあって

 前向いて行こう」

乃木坂46『Sing Out!』秋元康作詞、2019年)

 

 

 「みんなで支え合おう」「自分の幸せを分け合おう」――このようなメッセージは、まるで書店に並ぶ自己啓発書と同様のものに思えてくる。つまりきわめてポジティブな、自己啓発的メッセージなのである。

 当時2019年末に発表された『第52回 オリコン年間ランキング 2019』の「アーティスト別セールス部門」の「シングルランキング」において、乃木坂46は期間内売上36・4億円で1位を獲得していた。つまり乃木坂46は2019年時点、日本で最もシングル曲のCDを売ったアーティストなのである。そしてそのうちの1曲がこの『Sing Out!』となっている。2010年代の終わり、日本の女性トップアイドルは、恋愛ではなく、自己啓発のメッセージ――ポジティブな気分を分かち合い、みんなで支え合おう――をもってその人気を確立しているのである。

 2019年を代表する女性アイドルグループは、恋愛ではなく自己啓発的な歌詞を歌っている。これについて私たちは特に違和感を持っていない。乃木坂46の『Sing Out!』は、とくに物議も醸さずに日本のトップセールス曲となっていた。しかし、果たしてこの風潮は果たしていつから始まったのだろうか? 女性アイドルが自己啓発のメッセージを発することは、いつから当然のものになったのだろう。

 本稿ではこの問いについて考えるべく、2010年代に流行した女性アイドルと自己啓発的メッセージの関係について論じたい。一体、いつから日本の女性アイドルは自己啓発的な歌詞を歌うようになったのだろうか。

 

 

1.平成の自己啓発書ブームと自己啓発ソング

 女性アイドルに限らないJ-POPの歌詞について、作家の石丸元章とミュージシャンのsinner-yangは「平成のJ-POPは『自己啓発ソング』と呼べる歌が流行した」と2019年の対談で述べている。

 

(sinner-yang)まず、平成のJ-POPを特徴づける大きなトレンドとは何か。これは間違いなく「応援ソング」です。応援ソングとは言うまでもなく、頑張れ、諦めるな、夢を持て、愛を信じろ、といった白々しいくらい前向きなメッセージを基調とする曲のことで、これが平成になって大量生産されるようになった。

(中略)

(石丸)非常に興味深い。自分はこのへんの応援ソングを「自己啓発ソング」と呼んでいます。さらに自分は、これら自己啓発ソング量産の背景には、本物の自己啓発セミナーの流行があると睨んでるんですよね。

(「石丸元章 『危ない平成史』 #01 絶望から始まり絶望で終わった平成の音楽産業・前編 Guest|sinner-yang a.k.a. 代沢五郎 from O.L.H.」)

 

 石丸は、自己啓発セミナーの日本での流行と、自己啓発ソングの台頭が80年代後半という時期で一致していることを指摘する。どちらも「不満の原因は自分の心の中にある、だから自分自身を変えていこう」という考え方を押し出すものである、と石丸は述べる。

 これについて、まず日本の自己啓発的思想がいつから流行したのかを見たい。日本の自己啓発書について研究する牧野(2012)は、1945年~2010年の出版ベストセラー年報(毎年書籍の売れ行き動向を調査する『出版指標年報』による)のうち、何点が自己啓発書に分類し得るか調査を行った。それによると、特に1990年代から2000年代にかけて自己啓発書のベストセラーは増加傾向となっている。もちろん書籍売り上げの分母が異なるため、一概に自己啓発書の売り上げが伸びていると判断することはできないが、それでも90年代以降に自己啓発への関心が高まっていることは確かであろう。

 牧野(2012)によると、自己啓発書の流行は以下のように大きくまとめられるという。

 

1970年代:会社で成功することで自己実現を果たし得るという思想→ライフスタイル・ライフワーク論

1980年代~1990年代前半:バブル経済によって失われた自分の「心」を再発見するという思想→「心」の充実論

1990年代後半~2000年代初頭:自分の内面は技術によって変えられるという思想→ポジティブ思考やイメージトレーニングといった実践的技法(自己コントロール論)

2000年代中盤~①:「自己と自己との関係の構築」によって成功という結果は得られるという思想→自己啓発一般書、スピリチュアルブーム(強い心理主義論)

2000年代中盤~②:内面を掘り下げるよりも日々の習慣や行動の変革が肝要という思想→仕事術、習慣術と脳科学ブーム

 

 そして00年代に勝間和代をはじめとした女性の生き方論(=女性向け自己啓発論)が入ることも牧野は指摘する。牧野の論は2012年出版なので、2010年代のまとめは行っていないが、昭和から平成に至るまでの自己啓発書ブームを概観するとたしかに上のようなものになるだろう。

 牧野は自己啓発書の転換点を、90年代後半に置く。牧野いわく、この時代にはじめて「内面の技術対象化」が思想として登場したのだという。

 

 これらの著作からみてとることのできる1990年代後半の変化を筆者は、先述したように「内面の技術対象化」と表現した。つまり自己という対象が、その哲学的探究や心がまえの体得、精神性の(曖昧な)見直しによってではなく、定型化された技法・プログラムによってその内面を可視化され、また変革・コントロール可能な対象として位置づけられるようになったという変化を看取できるのではないか、と。

(『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』「第二章 自己啓発書ベストセラー戦後史――戦後日本における「自己のテクノロジー」の系譜」)

 

 つまり、自己を啓発する行為――自己実現を果たすための方法そのものは、平成において目新しいものではなく、昭和の高度経済成長期の時代にも模索されていたトピックのひとつであった。70年代に流行していた仏教書、あるいはライフスタイル論もそのひとつだろう。

 そのまま80年代後半、自己実現を果たすための方法論は、バブル経済をきっかけとして「心」の再発見というテーマの流行に飲み込まれる。それは哲学的思索や精神性の見直しによって自分の「心」を探し、あらためて自分の豊かさや人生の目的を考え直す、という試みが主であった。

 しかし90年代後半、自己実現のまなざしは、「心」を「管理」することに向かう。心は探されるものではなく、管理されるものとなったのだ。私たちは心のプログラムを熟知することによって、心はテクノロジーのようにコントロールできる。その結果として、社会における自己実現は果たされる。90年代後半以降、そのような思想が流行した。そしてその結果として自己啓発書の出版数やベストセラー書は増えていく。心のコントロール方法を知りたいと思うからだろう。

 前述した対談の中でsinner-yangが「自己啓発ソング」として指摘していたKANの『愛は勝つ』(1990)、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』(1991)、ZARDの『負けないで』(1993)は、牧野の自己啓発書史観においてはちょうど90年代初頭の「心の充実論」が流行していた時代に合致する。『負けないで』の「どんなに離れていても 心はそばにいるわ 追いかけて 遥かな夢を」(作詞:坂井泉水)という歌詞はたしかに「心の充実論」の流行時期の代表ソングといってよいのかもしれない。「あなた」が夢を追いかける時に支えとなるのは、「私」の心がそばにいること、なのだから。

 

 

2.モーニング娘。と『チーズはどこへ消えた?

 牧野が「内面の技術対象化」という変化を指摘した90年代後半以降、人気アイドルグループとしてモーニング娘。が流行していた。

 同じアイドルグループであっても、80年代後半に流行したおニャン子クラブの歌詞と、90年代後半に流行したモーニング娘。の歌詞で根本的に異なる点がある。それは、恋愛の要素が入って来るかどうか、だった。

 80年代後半に流行したおニャン子クラブの代表曲は「セーラー服を脱がさないで」(1985)「かたつむりサンバ」(1987)「ウェディングドレス」(1987)など、どれも彼女たちを彷彿とさせる女性の恋愛心情についての歌詞が中心である。これに対し、90年代終盤~00年代初頭のモーニング娘。の代表曲は、「ザ☆ピ~ス!」(2001)「I WISH」(2000)「ここにいるぜぇ!」(2002)。つまり恋愛の要素が入りつつも自己や社会を励ます歌が多いのだ。また「LOVEマシーン」(1999)や「恋愛レボリューション21」(2000)といった一見恋愛をテーマにした歌も、「日本」や「地球」など、社会を彷彿させる単語が入り込む。

 つんくが作詞を手掛けるモーニング娘。の歌は、世界や社会への肯定を歌っているように見えて、実は、「世界や社会とは切り離されたところで」自己/個人の変革を励ます歌が多いことが特徴的である。モーニング娘。の歌の論理は、世界や社会がどのような状態であっても、「それとは切り離された状態で」、自分は自分を肯定し、人生を好転させていこう、というものになっている。

 たとえばモーニング娘。の代表曲『LOVEマシーン』(1999)の有名なフレーズには「どんなに不景気だって 恋はインフレーション」という歌詞がある。これは「社会がどのような状態であっても、個人の恋愛を楽しもう」という主張にほかならない。つまり社会は変わらなくても、(この場合は恋愛によって)自分の気分は変えていける、ということである。

 あるいは代表曲のひとつ『I WISH』(2000)は、「ひとりぼっちで少し退屈な夜」を過ごしていた主人公が、「誰よりも私が私を知ってるから 誰よりも信じてあげなくちゃ!」と思い直すことで「人生ってすばらしい」と世界を捉え直す歌詞となっている(参照:参考画像1)。作者は「自分のことを信じる」ことによって、自分の人生について「全ていつか納得できる」ようになる、と歌の中で語りかけている。それは同曲の終盤、「同じ道」であっても、自分の捉え方によって「なんか見つけ」られる、という歌詞でも繰り返し主張されるテーマである。つまり『I WISH』は、社会がどうであっても(=晴れでも雨でも)自分の捉え方次第で人生は肯定できるようになるのだ、というメッセージを発する歌である。

 この『I WISH』の論理はまさに「内面のコントロールによって人生の捉え方を変えられる」という、90年代後半の「内面の技術対象化」の思想そのものではないだろうか。

 このようにモーニング娘。の歌詞には、しばしば当時流行していた自己啓発的思想が覗く。それは社会がどうであれ、自分を変革することで、人生は好転させられる、という発想が、既に当時一般的なものになってきたからなのではないか。

 もちろん女性アイドルグループらしい「恋愛」という要素も忘れられていない。『I WISH』にも「愛する人の為に」という一文が最後に存在する。だが、恋愛のメッセージと自己啓発のメッセージが一体となって歌われていることそのものが、00年代初頭のアイドルグループの特性だとも捉えられる。

 

(参考画像1:モーニング娘。『I WISH』の歌詞は『リフレイン』本誌では掲載していますが、本記事では省略します)

 

 『I WISH』の発表と同時期に出版された自己啓発書には、『チーズはどこへ消えた?』(2000)がある。本書は自分の求めるものをチーズと置き、それを得るための振る舞いを解説することで、「自分を変化させ、行動せよ」というメッセージを伝える。「最大の障害は自分自身の中にある。自分が変わらなければ状況は好転しない」というのが本書の主張となっている。牧野が、自己を働きかけの対象とする時代の一冊として挙げた自己啓発書でもある。

 モーニング娘。の歌詞はきわめて『チーズはどこへ消えた?』的である。自分の欲しいものを得るために、自分を変化させよ。そのメッセージをアイドルグループが歌うことになったのは、90年代後半から00年代というまさに自己啓発の思想の転換点に彼女たちが立ち会ったからではないだろうか。

 モーニング娘。が既に国民的アイドルになった後の2002年、『ここにいるぜぇ!』(2002)が発表される。この曲の中では、恋人の存在は仄めかされているものの「夢の翼を広げ」「自分をブチ破れ!」「いいわけなど GOOD BYE BYE」「チャンスはそこにある」「すべてはまだ学ぶ途中」と、自分を変革し、夢を掴むという目標をより直接的に歌っている。『チーズはどこへ消えた?』を参照するまでもなく、00年代初頭の「自己変革ブーム」ともいえる風潮は、アイドルたちの歌う歌詞まで変化させていたのだ。

 

~~~

 

参考文献

石丸元章、sinner-yang「石丸元章 『危ない平成史』 #01 絶望から始まり絶望で終わった平成の音楽産業・前編 Guest|sinner-yang a.k.a. 代沢五郎 from O.L.H.」(2019年3月20日更新、2022年9月28日閲覧、URL:https://hagamag.com/series/s0058/2869

牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』(2012、勁草書房

スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳『チーズはどこへ消えた?』(2000、扶桑社)

藤由達藏『結局、「すぐやる人」がすべてを手に入れる』(2015、青春出版社

吉野源三郎羽賀翔一漫画 君たちはどう生きるか』(2017、マガジンハウス)

 

------

 

試し読みは以上になります。ページ数は260ページで、「自己実現至上主義」についてさまざまな角度から迫っていますので、ぜひご購入ください!

以下、『リフレイン』全体の目次になります。

 

【目次】

〇自己管理アイドルソングの登場――00年代~10年代女性アイドルの歌詞と自己啓発書のメッセージの類似
三宅香帆

〇長いゼロ年代におけるアイドル声優 アイドル声優の起こりと確立までの変遷
西方刹那

〇「憧れ」と「実現/肯定」としての『アイカツ!』──「子供向けアニメ」的物語の構造分析序論
幸村燕

〇『ラブライブ!』の「自己実現至上主義」
ちろきしん

〇『響け!ユーフォニアム』座談会
ゼロ研編集部企画

テン年代を乗り越える(あるいは受け入れる?)ための断章
久固

ゼロ年代の美容整形「幸福」論
北条かや

〇「シェア」という欺瞞――忘れられた左翼的出自
ホリィ・セン

〇就職活動における「やりたいこと」とインターネット 使いこなす時代から提供される時代へ
妹尾麻美

〇タイムマシンの漂着したゼロ年代の海岸 『デデデデ』から考えるソーシャルメディア以降のセカイ系
立花光

ゼロ年代研究のすすめ
みやまれおな

赤松健の闇の魔法
ホリィ・セン

【ゼロ研×百合文研】まどマギ座談会②まどマギの作品構造―まどマギ世界における「責任」の変化と『ファウスト』イメージ

 

(注)本座談会(パート②)はパート①に引き続き、 TV版12話上映後(即ち『叛逆』上映前)に行われたものであるので、今パートの対談はTV版についての内容を主である(パート①は百合文化研究会ブログにて)。

 

パート①↓

【百合文研×ゼロ研】「まどマギ」座談会①心中と百合とゼロ年代 - 京都大学百合文化研究会の研究ノート

 

【ちろ】叛逆の物語を見る前に、作品全体のシステムの話をしたいんですよね。長くなるんですけど、いいすか?

 

【レニ】いいよ。

 

まどマギにおける重要なキーワード「責任」

 

【ちろ】まず最初に取り上げたいのは、魔女現象から魔獣現象への切り替わりが何を意味しているのか?という問いです。そこには、まどマギで重要なキーワードとなる責任の問題が絡んできます。7話で、ほむらは、自分を助けてくれたさやかを助けなければと焦るまどかに「感謝と責任を混同してはダメよ」と告げます。4話でも「あなたは自分を責めすぎているわ」とまどかに語りかけていますよね。ほむらは一貫してまどかの責任を免除しようとする存在なのです。まどかが背負っていた責任を自らが代わりに背負い込もうとしていたことは後の展開で明らかになってきます。魔女現象は社会の歪みを個人の責任に帰するものですし、杏子は父の新興宗教の隆盛の原因が自分にあることがわかったがために家庭を壊してしまいました。まどかも自分が魔法少女に早くなっていればと後悔し続け、ほむらは自分の責任としてまどかを守ることを引き受けます。

 

「サヴァイヴ系」としてのまどマギ

 

【ちろ】作中でさやかは悪いことが起きるとすぐ犯人探しをしようとします。悪いことが起きるとその責任を個人に帰せてしまうんですね。まどマギが中盤に魔法少女達のバトルロワイヤル的な状況を呈すのはさやかの価値観の異なる者を排除しようとする態度が大きな要因の一つになっているわけです。虚淵が小説を書いたFate/zeroのことはもう僕はあまり覚えてないんですが、Fateシリーズはいわゆる「サヴァイヴ系」と言われる作品の代表作です。「サヴァイヴ系」については宇野常寛ゼロ年代の想像力』が詳しいですが、大きな物語の崩壊の結果、小さな物語の乱立した状況、すなわち各々がそれぞれ自分の違う価値観を持っているが故に生き残りをかけて戦うという状況が現れます。ゼロ年代批評の代表的な論客である宇野常寛はこの「小さな物語の乱立」という状況にゼロ年代の大きな時代性を見たわけです。

 

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%83%B3%E5%83%8F%E5%8A%9B-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%B8%B8%E5%AF%9B/dp/4152089415

 

障害の個人モデルから社会モデルへの転換

 

【ちろ】小さな物語の乱立状況をいかにして乗り越えるかということはゼロ年代テン年代が共有する課題ですが、まどマギはどのような答えを出したのでしょうか。ここで、魔女現象と魔獣現象の転換に目を向けていたいと思います。魔女現象は悪の責任が魔法少女個人に向かうシステムです。その一方、魔獣現象では、悪が魔獣という形をとって「社会の歪み」から生まれることになっています。問題の所在が個人モデルから社会モデルへ転換しているんですね。障害学でいう障害の個人モデルから社会モデルへの転換と対応させるとわかりやすいと思います。車いすを利用する身体障がい者を例に取りますが、かつて彼ら彼女らが階段でしか入れない施設を利用できないのは障がい者個人の責任とされてきました。これが個人モデルです。それに対し、障がい者運動と障がい学の発展の中で生まれた社会モデルでは、社会が彼ら彼女らの利用を妨げていると発想を転換したのです。まどマギでも、悪が魔女個人の責任とされてきた個人モデルから魔獣という社会の責任とされる社会モデルに転換した訳ですね。

 

中動態の世界

 

【ちろ】日本の現代思想の世界で中動態という言葉があります。我々が当たり前のように生きている能動-受動の言語世界に対して、古代にかつてあった能動-中動という言語世界を対置する。

主に國分功一郎が言っているんですけどね。どういうことかというと、我々は普段何かが起きたときに誰に責任があるか明確になるように能動-受動の言語世界で生きている。責任能力のある誰かが能動的に意志して起こした行動が誰か別の人に受動的な影響を与える、そういう世界です。ところが、中動態の世界では、「場」で行為が発生するんです。

何か出来事が起きたとき、「その場の雰囲気」だとか「神の思し召し」だとか、場所や世界で行為が発生する。さやかが悲しい最期を遂げたのはさやか個人の責任ではないですよね。魔法少女システムを含んだ世界が悪いわけです。まどかはかつて魔法少女個人が引き受けていた責任を一身に引き受けます。そのためには自らが中動態的に作動する場にならないといけない。個人であることを捨てて概念になる必要があったわけです。(ちなみに、ここでちろきしんがした話は國分・熊谷『責任の生成』という本に大体書いてあります。)

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%B2%AC%E4%BB%BB-%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%88%90%E3%83%BC%E4%B8%AD%E5%8B%95%E6%85%8B%E3%81%A8%E5%BD%93%E4%BA%8B%E8%80%85%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E5%9C%8B%E5%88%86%E5%8A%9F%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/478851690X/ref=mp_s_a_1_1?dchild=1&keywords=%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%88%90&qid=1626426848&sprefix=%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E3%81%AE&sr=8-1

 

【やま】社会モデルへの転換の話は面白かったです。ただ、まどかが概念になったという論法が自分にはごまかしに見えてしまうんです。結局まどか一人を犠牲にしてしまってるんじゃないですか?まどかが自分で選んだから良いみたいに描いてるけど、それ以外の選択肢があったんじゃないか。

 

【ちろ】その通りです。それが叛逆に繋がっていく。

 

【レニ】まどか=キリスト説が成立するのではないでしょうか。結局まどかが社会の不公正を贖うことによって社会が救われましたという話。

 

【やま】最終話で恭介がアヴェ・マリア弾いてた。

 

【レニ】そうなんだよね。まどかはキリストなんだよなあ。

 

【すず】孤独な人間の隣にいるっていうのもキリストっぽい。

 

【ゆぅ】キリストよりもどちらかといえば、まどかのスタッフは『ファウスト』のグレートヒェンを明確に意識していたはず.......。なんでかと言えば、(10話で)まどかが魔女化した姿が「クリームヒルト・グレートヒェン」と設定されていたはずなので。或いは「契約」というモチーフもファウストにおける悪魔との契約を連想させるとも言いうると思う。その筋で行けばまどかは、(ある種の)ドイツ文学などにおいて男の人を救済していく「永遠の女性」の変様と考えるのが素直かなとは思う。補足をすると、ファウストは「汝は如何にも美しい」と言ってしまい悪魔に魂を持っていかれるはずだったのに、なぜか最後にファウストは救われる。そこにグレートヒェンという女性が関わっている。

 

f:id:zerokenn:20210716181847p:image

 

【いし】二部の終わりにグレートヒェンがファウストの魂を救いにいきますよね。

 

【ゆぅ】言いたいことは二つあって、(1)「契約」について言えば、キュゥべえの契約には『ファウスト』の契約の悪魔的なモチーフが重ねられていると読むのが基本線かもしれない。そして、(2)まどマギの物語自体も『ファウスト』の物語と重ね合わされているかもしれない、ということ。勿論、まどかをキリストと重ね合わせて考えてみるのもありだと思うけれど。

 

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4003240626/ref=tmm_pap_swatch_0?ie=UTF8&qid=1626427012&sr=8-1

 

【いし】ファウストは努力の人だったのに、悪魔に魂を売り渡して欲望の権化になっていく。まどマギの物語が『ファウスト』と重なるっていうのはそういう意味ですか?

 

【ゆぅ】それは全く意図していなくて、僕の強調点は、天上の女性がこちらを救いに来ることとそれが理知的なものの外にあること。それと「契約」の乗り越え。(「契約」→「賭け」)

 

【いし】『ファウスト』という戯曲全体で表されているストーリー線ってことか。

 

【やま】僕『ファウスト』読んだことないなあ。

 

【いし】『ファウスト』好きなんだよ。面白いよ。

 

【ちろ】やめてくれやめてくれ。文学の知見が全くないことにコンプレックスがあるんだよ。あたしってほんとバカ。

 

f:id:zerokenn:20210716181825j:image