ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

碇シンジではメンタリストDaiGoを止められない――「コンプレックス」概念の変容について

この記事はゼロ年代研究会アドベントカレンダー1日目の記事です。

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「コンプレックス」とは本来、精神分析的な概念である。テン年代以降、「心の闇」が語られることはなくなり、すべてが白日の元に晒されていく社会において、コンプレックス概念もまた、精神分析という出自を"抑圧"してしまった。

 

しかし、このこと自体がまさに精神分析的な事態なのである。ゼロ年代までは幅を利かせていた(むしろエヴァンゲリオンなどの影響もあり、一時的に最高潮に達した)精神分析的視点を取り戻すべきだとわれわれは考える。

 

何が変化し、何が失われたのだろうか? この記事で、少しばかりの見通しを示しておこう。

 

精神分析におけるコンプレックス

精神分析の始祖は言わずもがなフロイトである。しかし、今回注目する「コンプレックス」の概念は、フロイトの著名な弟子たちが発達させた。

 

まず、専門用語としてコンプレックスを提唱したのはユングである。ユングの定義では、コンプレックスは「一定の感情を核にした無意識的な観念や記憶の集合体」を意味する。

 

ただし、日本においてカタカナ語で(和製英語的に)言われる「コンプレックス」はたいてい「劣等コンプレックス」のことを指す。

こちらはアドラーが提唱した概念である。アドラーフロイトの無意識概念に影響を受けつつも、劣等感を補償する「権力への意志」を理論の中心に据えた。

 

劣等コンプレックスは単なる「劣等感」とは異なる。劣等コンプレックスにおいては、他人に対する劣等感が十分に自覚されていないのである。それはむしろ優越感というかたちで現れることもある。現代的な事例で言えば、しばしば無自覚になされる「マウンティング」は劣等コンプレックスが生じている分かりやすい例である。

 

このような精神的なこじらせは、文学的テーマにもなりうる。国語の教科書にも載っていることで有名な中島敦の『山月記』では、主人公が自意識を肥大させるあまり、虎になってしまう。彼は自分を「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」と特徴づけた。コンプレックスとはこのような逆説的な複合体だ。

そして、エヴァンゲリオン以後のゼロ年代においても、キャラクターがコンプレックスに振り回されてウジウジしつつ、それでもコンプレックスに向き合っていく様がしばしば描かれてきた(たとえば『アイシールド21』(2002~2009)における主人公の小早川瀬那とライバルキャラの桜庭春人を挙げたい)

ときに読者・視聴者はそれを通じて、自身に潜む闇とも葛藤してきたのである。

 

コンプレックスはいま

インターネットミームにおいて、「〇〇コンプ」という言葉が使われるようになって久しい。〇〇には学歴や容姿といった言葉が入る。

それは正しく、優越感と劣等感の複合体として用いられる側面もあったはずだが、もっと単純に劣等者を侮蔑するためのタームとしても普及した。

 

商業主義がインターネットをも覆いつくした現代において、低俗なインターネット広告ではコンプレックスを刺激するものが席巻している(たとえば脱毛の広告など)。言わばコンプレックス産業である。

ここにはもはや、精神分析的な意味合いでのコンプレックスは見られない。現代の広告はこう告げてくる。「コンプレックスがあるんだろう? ならばこれを買えば解消する」と。

 

今やコンプレックスは、人々の焦燥を煽り、金を払わせるための道具だ。

「心理学」を道具化した、象徴的存在がそう、メンタリストDaiGoである。

 

加速するライフハック

DaiGoは「メンタリズム」という超能力めいたパフォーマンスを「心理学」の名で遂行するキャラクターとしてテレビに出てきた印象が強い。言わば、マジシャンのようなポジションだった。

それが今や「心理学」を用いたライフハックの伝道師となった。興味深いことに、DaiGoは人に優越したいという下品な感情を隠さない。むしろ、劣等感は原動力であるというかたちで、「心理学的に」自己を正当化している。

 

DaiGoの言う「心理学」が科学的に疑義のあるものである(十分に研究のレビューがなされているとは言えない)点は、既に多くの人が指摘しているが、今はそのことは措こう。

問題は、DaiGoの標榜する「心理学」が精神分析的な方向性、すなわち理性への批判や自己の葛藤に向き合うというものではなく、単に問題を分かりやすいレベルで解消する「ライフハック」に偏っていることである。

 

加速するグローバル資本主義の中で、"ウジウジ"している時間などないのだ。コンプレックスを生じさせる問題があるのであれば、それはどんどん効率的に解決していけばよい。心理療法においてそれは、表面的な症状に焦点を当てた、認知行動療法・短期療法の隆盛を帰結する。

 

そう、もはや、碇シンジではメンタリストDaiGoを止められない。

 

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だが、対症療法というものは往々にして問題を見ないようにしているだけである。抑圧されたものは回帰する。長い人生で見れば、症状に対処するだけではいつかしっぺ返しがやってくる。

どんな人間であってもある種の症状と共に生きていかざるを得ない。それが精神分析の教えである。

 

手放すな。コンプレックスは君の命だ。

(ホリィ・セン)