ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

【告知】リフレインVol.2 巻頭言公開

 ゼロ年代研究会の新刊『リフレインVol.2 特集:「失われた『ゲーム世界』」を11/11(土)文学フリマ東京37にて1500円で頒布いたします。ブースは「そ-06 (第二展示場 Fホール)」です。

 告知にあたって巻頭言を公開いたします。全記事の紹介にもなっていますのでご覧ください!

 

------

 ゼロ年代研究会は、一九九五年頃から二〇一一年頃までを「長いゼロ年代」と規定して、その時代と社会・文化について掘り下げていくことと、今生きている現代の社会を批判的に捉え返すこととを目的としている。

 

 昨年は京都・大阪・東京でイベントや合宿企画を多少は開いていたが、今年に入ってからは主催者らが多忙化したことでこの半年はほとんど集まることができなかった。それぞれが個人的な研鑽(ゼロ年代の「未履修」の作品に触れるなど)は積んでいたものの、会誌制作以外はほとんど何もできなかったに等しい。

 

***

 

 そうしている間にもゼロ年代の作品はどんどんリバイバルしている。たとえばアニメでは『ダイの大冒険』や『スラムダンク』、『るろうに剣心』が放映された。これらは「九〇年代」の作品というイメージも強いが、ゼロ年代らしいもので言えば、『東京ミュウミュウ』や『令和のデ・ジ・キャラット』、『BLEACH』が放映された。来年は『狼と香辛料』のリメイクが決まっている。

 しかしアニメ以上にゲーム市場においてリバイバルは活況を見せているようにも思われる。近年のリバイバルで注目を浴びたのはなんといっても『FFⅦ』のリメイクだろう。その続編も来年に発売することが発表されている。

 興味深いのは、『FFⅦ』と同時代と言ってよい九〇年代半ば以降の名作が立て続けにリメイクされていることだ。たとえば、『ライブアライブ』や『マリーのアトリエ』、『マリオRPG』、『ONE.』などが挙げられる。

 九〇年代半ばはWindows95がリリースされ、ゲーム機としてもプレイステーションセガサターンNINTENDO 64が発売した、新しいテクノロジーの夢が垣間見られた時代であった。当時の最前線にあった作品たちがこうして「懐かしいもの」としてリメイクされるのはなんとも皮肉な事態だが、ここまで挙げた作品が(グラフィックや動作の流麗さを追求した『FFⅦ』を除き)Nintendo Switchへと移植されていることを考えると、このリメイク自体、ある種のニュー・テクノロジーとして捉えることが可能である。

 サブスクサービスが普及し、コンテンツに対する歴史意識が曖昧になりつつある昨今だが、九〇年代半ばと現代とでは、「ニュー・テクノロジーへの期待」という点では奇妙な共通点が見られるのである。だがもちろん、当時と現代ではその欲望のありようは全く異なることだろう。

 そもそも、先ほど挙げた九〇年代半ばの作品では旧世代の「スーパーファミコン」のソフトも二つ含まれている。すなわち「新しい」ものが常に売れるとは限らないのだ。むしろ人は新しいものに対してそんなにすぐには適応できず、戸惑いをおぼえるものである。

 しかし、よく言われることだが、昨今は「新技術が普及するためにかかる期間」そのものがどんどん短くなっている。自動車や電話、テレビなどが普及するのには数十年を要したのに対し、インターネットは十年ほど、スマホは五年ほどで一気に普及した。mixi→Facebook→Twitter(新X)→Instagram→TikTokのようなSNSの「移り変わり」についても相当の短いスパンで起きている。

 これでは「新しいものに期待する」どころではなく、ひたすらに世代間の細かい分断が発生し続けるのではないだろうか。その意味では逆説的だが、Nintendo Switchのような「リバイバルを促進するニュー・テクノロジー」には、技術革新の加速を遅らせ、「世代間の分断を癒す」装置としての機能が期待されているのかもしれない。

 前置きが長くなったが、ゼロ年代研究会としても単なる懐古趣味に陥るのではなく、あくまでも現代の視点からゼロ年代を再考することで、世代間の断絶に対するリテラシーを涵養することを目指している。その意味では(どれだけ忙しかろうが)会誌によるアウトプットだけは手を抜くわけにはいかない。

 今回発行する会誌Vol・2の特集テーマである「失われた『ゲーム世界』」にはそんな思いも込められている。

 

***

 

 より具体的に特集テーマについて説明しよう。

 ゲームは、固有の設定や世界観、操作性などをプレイヤーに与えることで、われわれの「今ここ」の現実とは異なる「ゲーム世界」を作り出してきた。日本においては、神話などを引用元とする「ファンタジー」の世界観が八〇~〇〇年代頃のゲーム文化において花開いたように思われる。そして、〇〇年前後には特異的と言ってよいほどに、PCによる美少女ゲーム(いわゆるエロゲー)の文化が隆盛を極めた。昨今も(美少女ゲームを題材にした漫画『神のみぞ知るセカイ』で有名な)若木民喜の『16bitセンセーション』がアニメ化し、「美少女ゲームに特権的な地位が与えられていた二〇〇〇年前後への憧憬」というテーマそのものにも市民権が与えられているようだ。

 しかし主に二〇一〇年代以降、スマホの台頭もあってお手軽な「ソシャゲ」が流行し、もはやそれまでのゲーム世界が持っていた「没入」感を失わせてしまったように思われる。一見「ファンタジー」の要素を継承している昨今の流行ジャンルである「異世界転生もの」も、もはやファンタジーの設定をある種の予定調和として組み込んでしまい、「ワクワクするもの」ではなくなってしまったのではないか。

 そこにあるのは「チート」をすることで「俺TUEEE」がしたいといったような、葛藤なき動物的な欲求であるようにも思われる。

 「今ここ」を超えるゲーム世界があったからこそ、われわれの想像=創造の力は喚起され、オルタナティブなものへの好奇心や、豊かな自己内対話といったものが促進されていたはずだった。ゆっくりと失われていった「ゲーム世界」はいかなるものだったのか。現代においてその世界を取り戻すことは可能なのか、不可能なのか。そういったことを探求の俎上に載せたいのである。

 

***

 

 そうして今回は、ゲームをめぐっての記事七本と、ゼロ年代を再考する一本の批評が集まった。順に紹介しよう。

 最初の四本は「美少女ゲーム」の系譜に位置するものである。

 調査報告 「検証——葉鍵世代」コミュニティ編」(ちろきしん)は、美少女ゲームブランド「Leaf」と「Key」が全盛を極めた二〇〇〇年前後にオタクとしての多感な少年・青年時代を過ごした者たちにインタビューすることで、当時の肌感覚を浮き上がらせている。一方、調査主体であるちろきしんは一九九九年生まれであり、その時代の感覚を知らない世代である。世代的に一回り以上も違うちろきしんが、自身の肌感覚において新鮮さや意外さを感じた部分を敢えて率直に記述するという戦略が採用されている。そのことにより、表面的に語られてきた現代とゼロ年代との違い(たとえば「〝嫁〟から〝推し〟へ」といった単純な図式)ではなく、根底的な前提の変化(たとえば美少女ゲームへのアクセスの難しさと、その乗り越え方)を浮き彫りにする野心的な調査である。

 美少女ゲーム・ワズ・デッド(ワニウエイブ)は、一九八六年生まれの立場から、なにゆえに当時、美少女ゲームが特権的なまでの感動を呼び起こしたのかという、その「マジック」のメカニズムを内在的に論じた記事である。そこでは、Key作品を中心とした作品の内容よりもむしろ、その作品群をどのように経験したのかという世代経験が語られているという点で、先ほどのちろきしんの記事を補完する、当事者側からの省察として位置づけることも可能だろう。しかし、ワニウエイブは、その美少女ゲーム経験が特権的であった、それゆえに、区切りとしての「死亡宣告」をつきつけるのである。その理路は本文で確認してほしいが、ワニウエイブの中で美少女ゲームの「死」が受容されているからこそ、最後に語られる現代のゲームへの展望も豊かなのだと思われる。

 「ぼくは、いま、痛い」——『車輪の国、向日葵の少女』と苦痛の瞬間(田原夕)は、美少女ゲーム車輪の国、向日葵の少女』への緻密な読解を通じて、痛みによる現在(いま)への囚われが、過去や未来への想像力を閉ざしてしまうさまをありありと描いている。田原も述べるように、この読解は典型的な美少女ゲーム批評に見られる「美少女を助けることの意味」を問うものではない。支配的・公式的な言説に振り回されるのではなく、田原自身の実存に関わる読みが深いレベルで展開された、良い意味でモノローグ的な文章である。「ゼロ年代的」と言ってもよいかもしれない。しかし、田原は他者が現在抱えている「痛み」を、未来の(大人の)視点から矮小化することへの倫理的な疑義を呈する。「いま」を相対化しようとするゼロ年代研究会、それどころか、「いま」ではない特定の時間を特権視しようとする世代論的言説全般に対し、根本的なアポリアを投げかけている。

 美少女ソーシャルゲーム史試論 二〇一一-二三 ―「統合型コンテンツ」の誕生―(箱部ルリ)は、ここまで挙がってきたようなゼロ年代美少女ゲームではなく、「その後」であるテン年代以後の「ソシャゲ」のうち、主に「美少女ソーシャルゲーム」の趨勢を把握することを目指す論考である。「美少女ソーシャルゲーム」に絞ってみても、「ラブライブ」や「アイマス」関連のものをはじめとして無数に存在するが、箱部はその中でも①最新のコミケのジャンルコードに存在するもの、②pixivでの検索件数が多いものに絞り、時系列順に「一〇年代初頭/中盤/後半以降」の三つに区分する。スマホ等の技術革新もふまえつつそれらの特徴を抽出し、オタクの消費傾向として語られてきた「データベース消費」「物語消費」「相関図消費」の図式を用いて鮮やかに整理してみせる。これを読めば、現代の「ソシャゲ」についていけない〝ゼロ年代の亡霊〟読者諸賢の視界がクリアになること請け合いである。

 以上四本は「美少女ゲーム」の文脈に基づいた文章である。しかし、「ゲーム世界」をより包括的に捉えるうえでは、広い意味での「ファンタジー」というジャンルも重要であろう。

 ソードアート・オンライン』「マザーズ・ロザリオ」編座談会(ゼロ研編集部企画)は、テン年代以降に流行した「異世界転生もの」の走りと言える作品である『SAO』の中でも評価の高い「マザーズ・ロザリオ」編に絞っての座談会を収録したものである。この座談会企画はテン年代以後の作品を批判するというコンセプトで開かれており、前回は『響け! ユーフォニアム』について行われた。そこでは、高度に洗練された「管理社会」において「自己実現」することが強制されることへの批判が展開された。今回はゲーム特集ということで、「異世界転生もの」への批判を展開するべく『SAO』を取り上げたのだが……。結果的には大絶賛だった。「マザーズ・ロザリオ」編では、現実世界とゲーム世界との間の緊張関係が丁寧に描写されており、昨今の「異世界転生もの」からはむしろ断絶さえ感じる、優れてゼロ年代的な作品なのであった。

 ファンタジー=メディア空間がもたらす〈救済〉 → 〈二世界問題〉からSound Horizonを読み解く(ホリィ・セン)は、現実世界と架空世界との関係をどのように整合させるかをめぐる〈二世界問題〉がテーマになっている。そのため、先述の「マザーズ・ロザリオ」編で描かれたようなリアル世界とゲーム世界との緊張関係について、理論的に整理することを可能にするメディア論的な道具立てを提供している。理論的な道具立てを用意するだけでなく、そうした〈二世界問題〉が現代社会ではどのように扱われるようになったのかを社会学再帰的近代化の議論から迫り、最終的にはどのように〈二世界問題〉に向き合っていくべきなのかをホリィ・センは問う。その答えには此岸と彼岸を往還することでいかなる救いが得られるのかという抽象的な問題が関わってくる。抽象的な議論を具体化するうえでホリィ・センは音楽ユニットSound Horizonの、ファンタジー的な要素が強いアルバムMärchenをやはり〈二世界問題〉を軸に読解するのだが、そこではホリィ・セン自身の持つ「ファンタジー」が敢えて投影され、複数の欲望が交錯するスリリングな読解でしか到達できない解答へと読者を導くことだろう。

 東方くら寿司論(入江遜考)は、「幻想郷」を舞台とするシューティングゲームとしてゼロ年代に一世を風靡した「東方」シリーズと、大阪で発祥した回転寿司チェーン「くら寿司」とを比較していく。入江自身が古風な仮名遣いでこの記事を構成していることからも示唆されているが、両者の比較においては、表面的な類似性が指摘されるだけでなく、オリエンタルな空気を擬制するメカニズムという点での根本的な繋がりがあることが読み解かれていく。「くら寿司」については語られている経営戦略とその世界観(ブランディング)を元ととしたものであるが、「東方」においては作られる楽曲の音楽理論的な読み解きがなされることが白眉である。共通して見出されるどこかアヤしい「日本」のイメージからは、欧米列強にキャッチアップすることへの強迫に急きたてられる中で、合理主義的なライフスタイルが押しつけられたことの歪みへと思いを馳せざるを得ないのである。

 以上が特集に沿った記事である。ゲームというテーマの特質もあるだろうが、比較的物語の内容よりも「ゲーム世界」とコミュニケイトするにあたっての〝アーキテクチュアルな側面〟に注目した記事が多くなっている。これは、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で自然主義的な読解と対置した「環境分析」的な読解がそれだけ根付いていると解釈できるのではないだろうか。その点、田原の記事は〝硬派な〟作品読解が展開されている点が特異的である。

 いずれにせよ本特集により、ゲームという観点から時代・世代感覚を養うための土壌を固められたならば(あるいは田原論考に従うならばその困難さをも受け取っていただければ)、われわれとしては望外の喜びである。

 

***

 

 なお、ゼロ年代研究会ではゼロ年代にまつわる自由投稿の記事も歓迎している。今回の唯一の自由投稿記事である神と暴力の「批評」――大澤信亮論(馬場息吹)は、「ゼロ年代の言論は思想的に無価値」と断じたことで物議を醸しだした大澤信亮の思想を丹念に(しつこく)追いかけた記事である。「ロスジェネ」系の論客として名を知られたものの、もはや読まれなくなっているように思われる大澤だが、正当にもこの論考では大澤にとって批評とは何か、すなわち大澤にとっての「思い通りにならない他者」とは何なのかという核心的な問いと格闘している。そのため、大澤が持っていた可能性の中心の一端に触れることのできる、現代においては貴重な論考である。なお、本記事が構成されるにあたって馬場が採用した執拗な文体そのものが大澤的なスタイルであり、大澤自身の文体が持つゴツゴツした他者性も体感させられる仕上がりになっている。

 

 

-----

 

巻頭言は以上です。

表紙は秋葉凪人先生に描いていただきました。

 

よろしくお願いします。

(ゼロ研編集部)

 

【調査協力のお願い】「検証――葉鍵世代」

【調査協力のお願い】

 

ゼロ年代研究会では「検証――葉鍵世代」と題し、1990年代後半から2000年代初頭にかけて、美少女ゲームが当時の消費者にどのように受容されていたのかについて調査を実施します。

 

2000年代は東浩紀を中心としてオタク系サブカルチャーについての批評が盛り上がった時代でした。中でも「美少女ゲーム」は東浩紀が『美少女ゲームの臨界点』という批評同人誌を作るほどに注目されたジャンルでした。

 

現代になって、”セカイ系同人誌”『ferne』や坂上秋成『Keyの軌跡』の発行(また、それに呼応する形で『東映版Keyの軌跡』という批評同人誌も発刊されている)など、批評シーンで再びゼロ年代のオタク系サブカルチャー批評が注目されています。われわれ、ゼロ年代研究会もその流れの中に位置づけることができるでしょう。

 

批評シーンだけではありません。『ONE~輝く季節へ~』のリメイク版の制作が今になって発表されるなど、当時を知らない若い世代の間で当時のオタク系サブカルチャーについての関心が高まっていることは注目されるべきでしょう。

 

しかし、「ゼロ年代」について語ろうとするわれわれは、実際に当時、そうした作品がどのように受容されて、消費されてきたのか、わからないまま語るほかありません。我々だけではなく、当時のオタク文化について今語ろうとしている人の中にも同じ問題を抱えている人は多いのではないでしょうか。

 

そこで今回、我々は、2000年前後をターゲットに、当時美少女ゲームがどのように受容・消費されていたのか、そして、当時の消費者にとって美少女ゲームをプレイするという体験はどのような意味を持っていたのか調査します。

 

参照する資料は以下のようなものを考えています。


・当時のテキストサイト
・当時の掲示
・当時美少女ゲームを追いかけていた方へのインタビュー

 

以下のような方がおりましたらDMいただきたいです。

 

・当時美少女ゲームを追いかけていた人でインタビューを引き受けてくださる方
・当時の美少女ゲームについて感想などを発信していたテキストサイトについて何か知っておられる方

(URLさえわかればInternet Archiveで内容を閲覧することができます)

 

インタビューの実施、その他データの収集、データの分析・考察、発表原稿の執筆などの調査の主要な部分は、ちろきしん(@taikai_sha)が務めます。
11月の文学フリマで頒布する会誌第二号で調査結果について発表する予定です。

 

なお、インタビュー調査の詳細については下記に記しています。調査にご協力いただける方はお読みいただければ幸いです。

 

何卒よろしくお願いいたします。

 

ゼロ年代研究会

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

インタビュー調査についての詳細

 

さて、質問についてですが、下記のことを主にお聞きしたいと考えております。

 

美少女ゲームに触れるようになったきっかけ
・2000年前後当時美少女ゲームについて話していたコミュニティについて
美少女ゲーム体験が人生にとってどんな意味を持ったか


インタビュー時間について

1時間〜2時間を予定しております。

 

録音について

もし可能であれば録音させていただきたいです。録音が不可能な場合はメモを取ることを許していただければ幸いです。

 

お話について


お答えに差し障る質問には回答いただかなくても構いません。また、お答えいただいた内容は後から撤回していただくことや、途中でインタビューを辞退していただくことも可能です。

 

プライバシーについて


お聞きした内容は文字化し、ゼロ年代研究会会誌『リフレイン』vol.2に寄稿する文章にて使用させていただきます。その際には匿名化および大意を損なわない範囲での改変を加えることで、個人を特定できないよう配慮いたします。得られたデータはセキュリティ対策を実施した上で電子データとして保存します。また、お話を利用した箇所については逐一公開前に公開してよい内容かどうか確認させていただきます。

黒田硫黄②‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る-

僕が黒田硫黄で一番好きなのは『茄子』だ。

 

僕はよく『茄子』の話をするのだが、『茄子』はどんな漫画かと聞かれると毎回困る。

連作短編集といえば話が早い。だが、『茄子』はただの短編の寄せ集めではない。登場人物が有機的関係を築いていて、ある短編のキャラクターが別の短編の関係なさそうな人物と関わりがあったりする。そうした関わりが『茄子』という短編シリーズ全体を通して網の目のように広がっている。一方で他の話とは完全に独立した話(急に時代劇や近未来SFが始まったりする)もあって、それも含めてすべてが『茄子』という一つのタイトルの中に収まっているのだが、全然統一感のない話なのに不思議と統一感があるのだ。

 

『茄子』に統一感をもたらしているものとは何か。僕は黒田硫黄の人生の多面性を描こうという姿勢だと思う。

 

まず一つは人間の生きる世界が多様であること。

 

現代日本の世界のさまざまな人の物語が半分以上を占めるが、スペインの自転車レーサーの物語(映画化された「アンダルシアの夏」)や江戸時代の時代劇(これが変な話で面白い)、近未来の日本を舞台にしたSFものもある。人は生まれた環境の条件に縛られながら自分の人生を生きていく。自らの努力で人生を切り開くものもいれば、努力が報われないもの、荒波に翻弄される中で日々を必死に生きるもの、ただなんとなくぼーっと日々を送るもの、刹那的に生きるもの。

 

f:id:zerokenn:20221223003719j:image

f:id:zerokenn:20221223003728j:image

f:id:zerokenn:20221223003747j:image

f:id:zerokenn:20221223003753j:image

 

『茄子』を読んでいると、さまざまな人間がこの世界には共存していてそれでいいのだという当たり前のことに思い至る。先日の記事で黒田硫黄鬼頭莫宏の類似性を指摘した。鬼頭莫宏は自分の実存を作品に乗せて書くタイプの才能で、黒田硫黄は漫画表現というものを追究するタイプの才能だ。僕は二人のどちらが好きかと言われると鬼頭莫宏と即答する。鬼頭莫宏のもがきながら漫画を描いていることが作品から伝わってくるのがたまらなく好きだからだ。だが、どこか危うい鬼頭莫宏と比べた時、黒田硫黄の描く作品には余裕を感じる。その黒田硫黄の視野の広さが最も現れているのが『茄子』だと思っている。

 

それはともかく『茄子』のキャラクターってめちゃくちゃ魅力的なんだよなあ。たった三巻の中で愛着のあるキャラクターが何人もいる。非常に限られた枠で一人の人間というものを表現した、その無駄を削ぎ落とした美しさに感動させられるが、しかもそれを何人ものキャラクターでやっているのが『茄子』なのだ。

黒田硫黄①‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る-

黒田硫黄とは何者か、という問いを考える。ついついこんな作品を書く人はどんな人なんだろうということを考させられてしまうような天才漫画家だ。

 

これまで鬼頭莫宏の無常観的な作品世界について書いてきた。

 

黒田硫黄も無常な作品世界という点では鬼頭莫宏と共通している。

 

大体登場キャラクターの望みは叶わないし(黒田硫黄も失恋の話が多い)、黒田硫黄もまた、軽率に世界を滅亡させる。ただ、鬼頭莫宏よりも明るい。

 

鬼頭莫宏黒田硫黄も、人が生きて死んでいくことの意味を信じていない。鬼頭莫宏はそれを自分に言い聞かせながら、描いているように感じる。生きていることに意味を見出せないのが辛くて、絶望して、なんとかそれでも生きようともがいた過程が漫画ににじみ出ている。

 

それに対し、黒田硫黄は仙人みたいな印象がある。短編『あさがお』に「五つのときは天才子役、十のころは天才数学少年、十五で少年剣道大会全国優勝、二十で狂人」になったヨシキという人物が出てくるが、僕はどうにもこの人物が黒田硫黄が思う自分の理想形なんじゃないかというような気がする。

 

 

 

ヨシキが「魔法」で空を飛びあがり、月に立つ印象的な場面があるが、黒田硫黄もそうやって月に立って外から人の世界を眺めているような感じがするのだ。ヨシキは映画監督になるというオチがついているが、黒田硫黄も自分の信じる美を表現するために漫画を描いている、そんなタイプの作家だと僕は思っている。

 

どうにも「仙人」黒田硫黄のレンズから見て、最も美しく見えるのは欲望のままならなさらしい。『大日本天狗党絵詞』では人目を避けて生きている人ならざる「天狗」という存在が描かれる。「天狗」も最初は人間だ。人の世界から弾かれて「天狗」になる。そして暗闇の中を生きている。黒田硫黄の墨を使った独特な画風が「天狗」の生き様にあまりにもぴったりマッチしていて息をのんでしまう。

 

そんな「天狗」たちは人間に対するルサンチマンを爆発させて「天狗党」を作り人間世界に対して反旗を翻す。それで、この天狗が黒田硫黄にしか描けないものなのだ。天狗という存在の中に人と一線を画した高貴さと妙に人間臭いところが同居しているのが、黒田硫黄の漫画を他とは違う特別な作品にしている。「天狗」は日陰者の人間が、自分と重ねられそうでギリギリ手が届かない、そういう存在なんだなあ。やっぱり黒田硫黄は天才だ。いや、狂人と言った方がいいかもしれない。

ゼロ年代からテン年代にかけてのテレビバラエティ番組の変化についてちょっと考える

僕、ホリィ・センは91年生まれなので、1998~2004年が小学生、2004~2007年が中学生、2007~2010年が高校生であった。

僕が中学生のときに『電車男』が流行っていたわけだが、まさに「オタク」であるというアイデンティティを自分は持っており、「スクールカースト」的なものを強く意識していた。「リア充」に対するルサンチマンだった。

 

今や「オタク」がスクールカーストの下位であるという意識は薄れているように思う。とはいえ、「陽キャ陰キャ」といった言葉は未だに存在しており、「コミュニケーション能力」的な何かがカーストの上下を分けるということ自体はやはり起きているのではないだろうか。

 

この「コミュニケーション能力」という基準は曖昧だが、その参照項となっているものに「お笑い芸人」がいるように思う。芸人たちはテレビバラエティに登場しており、特定のコミュニケーション形式のヘゲモニーを生成しているように思う。

だが、このヘゲモニーは時代を経て移り変わっていくものだ。今回、ラリー遠田の『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり――〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(2018)を読んだので、その内容をつまみ食いすることで、ゼロ年代に支配的だったコミュニケーション形式がどういうものであったのかを考えるための一素材にしてみよう。

 

この本は6章構成で、それぞれ個別のトピックを扱っている。章立てだけでもだいたい言いたいことが分かるので、まず章立てを貼っておこう。

第1章 なぜ、『みなさん』『めちゃイケ』の時代は終わったのか
第2章 なぜ、フジテレビは低迷しているのか
第3章 なぜ、ダウンタウンはひとり勝ちしているのか
第4章 なぜ、『アメトーーク!』『ゴッドタン』『水ダウ』はウケているのか
第5章 なぜ、視聴者は有吉とマツコから目を離せないのか
第6章 なぜ、大物芸人はネットで番組を始めるのか

それぞれにいろんな話をしているので、どれが一般的な話なのか分かりにくいし、僕も評価しがたい。評価は読者に任せるとして、ゼロ年代テン年代とを区別して語られているであろうポイントを列挙しておこう。

 

第1章に関しては「王道バラエティ」が流行らなくなったことで、『みなさん』と『めちゃイケ』は終わったという。『みなさん』はパワハラ的な笑いが近年のポリコレ的空気に合わなかったようだ。

めちゃイケ』は出演者が高年齢化していき、番組自体、出演者にとっての「青春」だったと分析されている。テレビは「感動」を提供するものというよりも、もっとシニカルなものが求められているということかもしれない。

 

パワハラ的笑いが忌避されることに関しては第2章のウッチャン博多華丸・大吉サンドウィッチマンのような「いい人」が売れているのだという指摘にも繋がっている(それにしては松本人志はよく生き残っているということで、第3章では独立に分析がなされている)。

また、第2章では「ボケ」よりも「ツッコミ」の比重が上がったということが述べられており、シニカルさが求められている証拠ではないだろうか。

具体的には『はねるのトびら』が2008年に全盛期であり、ボケが中心であったが、今やマツコ、有吉、くりぃむしちゅー上田的なツッコミキャラクターが求められており、ナレーションもツッコミ型のものが増えたという。

「ボケ」が忌避されるのは、視聴者がハイコンテクストさに耐えられないということでもあるようだ。どちらかというと「わかりやすい」ものを作っている日テレの方がフジテレビよりも分があるのではないかと分析されている。

 

第4章では、「ネタ」の内容に踏み込まれている。2009年においては「エンタ」「あらびき団」「レッドカーペット」といった番組での1,2分ネタがブームだった。

しかし、最近は長めのネタが披露されることが増えている。番組構成にもこれは反映されており、本が書かれた2018年に流行っている番組として「アメトーク」「ゴッドタン」「水曜日のダウンタウン」が挙げられている。いずれにせよ、ディレクターによって番組構成がかなり練られているという印象である。

より具体的には、これらの番組は前例を踏襲するのではなく、計算して取れる笑いだけでなく、計算を超える部分を扱っているという点で優れていると分析されている。

アメトークは芸人主体のトークにおいて芸人のポテンシャルに任せ、ゴッドタンは芸人のアドリブに頼りつつもその下準備をしっかりやるコント的構成になっており、水ダウはスタッフが「説」を検証する中で作られた「VTR」をどう評価していくかにおいて工夫がなされている、という感じである。

 

第5章では有吉とマツコが分析されており、いずれも「テレビ芸能人的振る舞い」(自分はテレビに出るのが当然だという振る舞い)を自らに課さず、テレビ視聴者側の(シニカルさも含んだ)「下から目線」にちゃんと立っていることが指摘されている。

 

第6章は若者のテレビ離れではなく「テレビの若者離れ」が起きているのだと指摘し、近年の見逃し配信等の技術的な変化について、テレビ的なものが薄く広がっているだけで「テレビが死んだ」わけではないという展望を述べている。

 

以上、軽く紹介したが、個人的に面白いと感じるのは視聴者のシニカルな目線を折り込み済みで番組が作られるようになってきているという点である。これは、北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)で指摘していたような80年代のテレビ、すなわち「ギョーカイ」の舞台裏を見せるような番組構成に似ているように思う。

北田はそれが2ちゃんねる的なシニカルさへと転態しつつ、それでもなおベタなロマンティシズムが同居していくようになる過程を分析しているわけだが、マツコのようなキャラクターは「シニカル」という言葉から想像される「性格の悪さ」というよりもむしろ「信頼できる率直さ」という感じがするように思う(なお、この本では(北田が重視していた)ナンシー関とマツコが同一視されているのも興味深い)。

(ホリィ・セン)

汎国民的自由恋愛幻想の崩壊・変容とセカイ系 そしてメンヘラ/弱者男性へ…

12/11の記事で筆者はセカイ系の「想像力」の社会的、歴史的な根拠を示したが、これは結局セカイ系において自意識の問題がロマンティックな恋愛との関係において描かれたことの説明をなしえていない。

 

本稿ではこの問いへの仮説的解答として、セカイ系作家の世代における汎国民的自由恋愛幻想の崩壊と変容を見出したい。自由恋愛の社会的条件は概ね以下のように説明できる。

 


資本主義・国民国家市民社会において人間は市民化=商品化すると同時に人間と人間の関係をも社会的関係として商品化されてきた。近代において人間は誰もが自由で卓越した「個人」になれると考えられたが、実際には法の下の平等という名目において凡庸な「何者でもない、誰か」が大量に生み出されただけだった。身分の交換可能性の法的な「保証」によって近代人はつねに卓越化への飽くなき資本主義的自己陶冶に埋没していくことになる。同時に、資本主義の発展と共に都市化が進行する中で、これら凡庸な諸個人=労働力商品たちは、かつて伝統的共同体で備給されえた(もしくは絶対的に備給されえなかった)性的承認とそれに基づく「卓越性」を自分と同じ「自由」で「平等」な諸個人との関係=自由恋愛に求めるようになる。この時見出された「愛」なる感情はすぐさま異性愛的性規範=生殖のイデオロギーとして国民国家の生権力に簒奪され、資本主義において消費されゆく商品にまで貶められた。(拙稿

note.com

より引用 )

 


とはいえ、本邦において実際に恋愛結婚と自由恋愛が国民の間に広く浸透するのは二十世紀も後半になってからのことだし、また恋愛結婚と自由恋愛を同一視することもできないが、バブル崩壊就職氷河期以降、経済的に「下流」化した若者たちが同時に性愛と結婚の機会をも喪失し、ゼロ年代には「非モテ」をめぐる問題が噴出し始める。その代表的な論者が本田透であり、彼の非モテ論は当時例えば滝本竜彦の『超人計画』などと響き合うところが確かにあった。「三次元の女の子といかに関係を結ぶか?(あるいは、そこからいかに退却しうるか?)」という問いがゼロ年代の当時まだ若かった非モテオタクにおいて生じた時期である。

 

だが、自由恋愛の変質はその「脱落者」に限った問題ではない。セカイ系作家に限っても、たとえば新海誠ほしのこえ』のオリジナル版には、炬燵で当時の恋人の女性と向かい合って台詞を吹き込んだという有名なエピソードがあるように、セカイ系作家を単に自由恋愛からの「脱落者」と見なすのは無理がある。

 

ゼロ年代新自由主義的な空気が全面化しはじめた時代だと言われる。市民社会が衰退し、「公共の福祉」なるものも疑わしいものになった時、人間は「自己責任」において経済的自由領域を確保せざるをえない。この時、「能力主義」的選別から脱落した者は、他者との関係において「福祉」の代補を試みることにもなる。一種の共同体主義としてシェアハウスをはじめとするコミュニティの仮構ーー宇野が『ゼロ想』時点で評価したのも概ねこれであるーーが、その方途として現れる。ツイッターをはじめとするいくつかのSNSもこの潮流の中に位置づけることは可能である。

 

他方でかかる関係は「絶対的な二者関係」として、親密な性愛関係においても見出されていく。セカイ系的な「君と僕」の絶対的二者関係においてその外部としての「他者」や「社会」は根本的に敵対的な存在であり、それらをいかに不可視化(削除)するかが求められるだろう。こうした過剰に密着的で盲目的な二者関係は現在では「メンヘラ」的な恋愛のあり方としても現れているが、男性オタク的表現においてそれを最初に主題化したのがセカイ系であったことは疑いを容れない。

 

汎国民的自由恋愛幻想からの脱落にせよ、「絶対的二者関係」としての性愛への逃走にせよ、セカイ系における恋愛と実存の問題の前景化は、結局のところ自由恋愛の変質をめぐる実存的不安を背景にしていたと言ってよい。

 

ところで、自由恋愛におけるこの両者の反応は、雇用問題とも相即して現在ではそれぞれ「インセル/弱者男性」と「メンヘラ」として顕在化してきている当のものである。ここでは詳述はしないが、とりわけ前者は、ゼロ年代非モテ論壇を社会構築主義(経済状況への着目)と屈折した本質主義進化心理学的な男女論)の奇妙なキメラによって「政治化」したことで生じていると言って過言ではない。論者の多くが中年化していることもあり、彼らにおいてかつての本田透滝本竜彦にあったユーモラスな側面は失われている。それどころか、「女性への復讐」としてのジョーカー的テロルはもはや我々の日常と隣合わせでさえあるだろう。今やトー横キッズとしても現れている「メンヘラ」の問題の場合も事情は変わらない。セカイ系に始まるゼロ年代の諸問題は今なお持続しているのである。

(黒羽)

セカイ系の二つの世代

セカイ系を論じるに際して忘れられがちなのが、セカイ系作家に大きく分けて二つの世代が存在していることである。

 

新海誠秋山瑞人高橋しん鬼頭莫宏らを60年代後半〜70年代前半生まれを第一世代とすれば、西尾維新佐藤友哉滝本竜彦ら(とりわけファウスト系)を70年代後半〜80年代生まれを第二世代とすることができる。

 

こうした区分をするのは、宇野のように「古い/新しい」という価値評価を行うためではない。両世代において、「世界の終わり」をめぐる「想像力」に決定的な差異が認められるからである。

 

第一世代においては、『ほしのこえ』『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』がそうであるように、「世界の存亡をめぐる戦争」が具体的なものとしてーーというよりは作中で現にあるものとしてーー描かれる。
さらに、ロマン主義的な表象が大量に描かれ、「感傷的」な空気感が濃厚にあることもまた第一世代の特徴だろう。

 

他方、第二世代においてはこうしたロマン主義的表象は(相対的に)希薄である。どちらかといえば郊外や地方都市のジャンクさ、殺風景さがそのまま描かれる傾向が強い。また、第一世代において実際の終末として描かれた「世界の終わり」は、具体的に訪れるものというよりは、主人公にとっての抽象的かつ観念的な対象として描かれることが多い。ノストラダムスの大予言が外れたように、「世界の終わり」などやってこず、「終わりなき日常」(宮台真司)を生きていくほかないことへの諦念と違和感が、彼らの作品には瀰漫している。さらに、第二世代で特徴的なのは、とりわけファウスト系がそうであったようにテロや殺人をモチーフとした作品が多いことだ。これは、単に新本格ミステリをはじめとする探偵小説からの影響というだけでは済まない。なぜこれら「探偵小説的」と言ってよいモチーフが、主人公の過剰な自意識(自分語り)と結びついてセカイ系的な表現として現れてきたのか。特に、なぜ佐藤友哉は「テロル」を見出したのか。

 

それは恐らくは、彼らにとってこの「社会」そのものがはっきり敵対的存在として現れてきたからである。笠井潔が言うように、今日におけるテロとはーーとりわけ通り魔をはじめとするホームグロウンテロの場合ーー社会契約を破棄し、市民社会と戦争状態に入ることである。社会が敵であるから、佐藤は「復讐」の手段としてテロを選ぶのだ(『クリスマス・テロル』)。それは単に著作が売れない(重版されない)から、読者に復讐しようとしたという以上の意味を持っている。セカイ系における社会領域の希薄さが「たんに「恣意的な「関心」に従属する選択」ではない」ことの意味は、ここにある。

 

ここでさらに、我々は彼ら(滝本、佐藤)がひきこもりやフリーターであったことを想起しなければならない。滝本はその代表作『NHKにようこそ!』やエッセイ『超人計画』からも知れるように大学を中退したひきこもり青年であったし、佐藤はその作品において北海道のパン工場で働く青年をしばしば描いてきたように元々フリーターであった。同じようなことは西尾にも言えるかもしれない。西尾は『クビキリサイクル』でデビューした当時立命館大学に通う学生であったが、後述するようにそれは今日においては「ルンプロ予備軍」、すなわち将来においてそれなりの確率で非正規労働者やフリーターになりうる存在でさえあることを意味している。要するに、彼らはいずれも未だ正規雇用の職を得ざる不安的な「ルンプロ」的存在であった。
彼らを「ルンプロ」たらしめた社会的条件とは、言うまでもなく就職氷河期である。バブル崩壊景気循環に伴う一時的な不況にすぎないと当初は思われたが、その楽観的予測は外れ長期化し、日本社会の産業構造に起因する構造不況であったことがまもなく露呈する。

 

構造不況の到来と就職氷河期への直面は無論第一世代においても無関係ではない。就職氷河期の到来によって多くの青年がもはや安定した雇用を得られなくなり、プレカリアート化したことによって、社会は彼らにとって敵対的な存在にもなる。そして、自らを「ルンプロ」たらしめたーーあるいは終身雇用の崩壊によって将来も定かでない存在たらしめたーー敵対的存在としての社会=世界は滅ぼされねばならない。だからこそセカイ系は、それが意識的か無意識的かは別として、「世界の終わり」を主題化したのではないか。その表現において、第一世代は前島賢が『セカイ系とは何か』で指摘したように冷戦の記憶が強く刻印され、第二世代はオウムの地下鉄サリン事件という9・11に先行して発生したテロの記憶があるだろう。両世代の「世界の終わり」をめぐる「想像力」の差異は、ここにも見出すことが可能である。

(黒羽)