ゼロ年代研究会

長いゼロ年代(1995〜2011)の社会・文化を研究します。

鬼頭莫宏①‐99年生まれ、90年代・00年代アフタヌーンを語る‐

鬼頭莫宏には、「パパの歌」という短編がある(掲載は『アフタヌーン』じゃなくて『ヤングマガジン』だけど……。*1

 

1991年にリリースされた忌野清志郎の「パパの歌」から題を取った一編だ。「パパの歌」の作詞は糸井重里である。

 

チャラい見た目の夫・隆(たかし)と気立てのいい妻・松葉(まつば)が出産の報告に妻の実家にスポーツカーで向かう、という話仕立てになっている。夫は、いかにもなヤンキー風の世界に生きている。タバコやギャンブルが好きで、少ない稼ぎをスポーツカーにつぎ込む。ドライブBGMは忌野清志郎だ。

 

一方で妻は、優しい母と口数の少ない働き人の父親の元で育ってきた。いたのかいなかったのかわからない印象が薄い父親だったという。

 

ところが、母親は松葉に、隆が父に似ていると語る。彼を苦手にしていた隆は困惑する。が、松葉の実家で父のことを聞いてみると、その過去が判明する。父親もかつてはヤンキーで、松葉が生まれてからタバコをやめてスポーツカーも売り真面目に働くようになった。一方で父親本人は老年ながらも、隆の話に影響されて、またヤンキー趣味を再開したらしい。隆は帰り際、お父さんみたいなのも悪くないかもな、とふと思う。

 

大体こんなあらすじだ。

 

鬼頭莫宏は単純に言えば、「絶望」の人だ。得たかったものが得られず、やりたかったことができず、理不尽に打ちのめされる人々の姿を描いてきた(鬼頭莫宏②で書く予定)。そんな鬼頭莫宏が珍しく満たされた幸福な人生を歩む人々の姿を描いたのがこの「パパの家」である。

 

だからこそ、ここには鬼頭莫宏の人間観が明確な形で見出せる。主人公・隆に重ねられる松葉の父の人生は非直線的だ。ヤンキーとしてスポーツカーに憧れた若いころ。そして家庭を持ち、自分の生き方を”いったんは脇に置いて”家族のために仕事に励んだ中年の時代。そしてまた元気に自分の生き方を追究する老年期。

 

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ここには、鬼頭莫宏の、取り立てて特徴のない”普通の人の普通の人生”に対する敬意がうかがえる。”普通の人の普通の人生”を送ることはそんなに簡単ではない。諦めなければならないもの、耐えなければいけないものが、ここにも、そこにも、いたるところにある。『なるたる』も『ぼくらの』もこの視点だけは一貫している。

 

夢を追うことと自分の大切な人たちを支える人生を送ること、言い換えれば自己実現本位的生き方と共同体本位的な生き方の二つの選択が迫られる中で、安易に自己実現本位的な生き方を選ばず、”いったんは”大切な人のために生きてみる。ゼロ年代は、そうした生き方が肯定されていた時代だったと思う。

 

他にも僕にとって身近な例を挙げれば、『東京BABYLON』、『CLANNAD』や『半分の月がのぼる空』が思いつく。僕がゼロ年代の作品に惹かれる理由は、”特別”になることを強迫的に迫られながらも、どこかで踏みとどまって”普通の人の普通の人生”を生きる選択をする人々が包み込むように描かれているところにあるのだろう。

 

次回の鬼頭莫宏②では、アフタヌーン連載時代の鬼頭莫宏について踏み込んでみていきたい。

*1:鬼頭莫宏は『アフタヌーン』で連載デビューをしている。「アフタヌーン作家」のカテゴリーに堂々入る漫画家だ。